生き返ったイエスを 恐れずに信じる

20140419-2

2014年4月 復活徹夜祭
ロワゼール神父様のお説教より

創世記のなかで、いちばん最初に作られたものは何ですか?と聞くと、わからないとお答えになる人は意外に多いです。旧約聖書の創世記では、神は初めに天地を創造され、そして次に光を創られました。ただ、わたしは、原理を生み出すものとして、光が最初の創造物だと言ってもいいと思います。

というのは、光がなければ健康もない、光がなければ悩みもないです。世の中を照らし出し、理解させるという意味で、光は世界の根源といってもいいからです。そして私たちが祝う復活祭のなかで、光とは「復活の光」であり、それは主がキリストによって、世界を、私たちを照らして下さったということなのです。

さて、今日のマタイの福音書のなかにでてくる二人の婦人について、考えてみたいと思います。婦人たちはイエスが入れられた墓を見に行ったのですが、マタイの記述では、ただ(お墓に)「行く」と簡潔に書いてあります。言うなれば、お墓参りです。当然ですが、イエスは死んだ人と考えられていたはずです。イエスは死者のなかの一人とみなされていました。

ところが、墓の中にはご遺体がなかった。イエスの体はどこに行ったのか。これは、信じられないことです。ご婦人は最初は怖くなって逃げたと思います。でもあとで考え直したのです。天の使いの言う通りなら、イエスは生き返っていると。

彼女たちの考えは混乱し、二転三転したと思います。だって、イエスや他の弟子たちといっしょに生活していて、生活が出来上がっていたところ、その先生がつかまって、殺されてしまった。イエスに従っていた人々の希望や期待はいっしょに消えてしまった。悲嘆していたら、こんどはイエスが生き返って、墓から消えていた。彼女たちの信仰は完全ではなかったかも知れませんが、他の弟子たちにはイエスが生き返ったと伝えています。生身の人間にとって、きわめて大きな変化が続いたわけです。

このご婦人たちの人生が、イエスとの出会い、別れ、そして復活の奇跡との遭遇によって、大きく動かされたように、私たちの人生も、復活イエスとの交わり、生活の中でイエスを受け入れることで大きく変わります。イエスから遠く離れてしまうのではなく、友のように、話かけ、その存在を受け入れることが大切です。イエスを受け入れる人に対して、イエスは両腕を広げて迎えて下さいます。キリストの愛を求めるひとが、がっかりすることはありません。そのために、恐れずにイエスを信じることです。

自分のすべてをイエスにおまかせしましょう。イエスはいつも、あなたともにいて下さり、あなたに平和を与えて下さいます。これは約束です。だから、恐れることはありません。今日の福音のなかで2度出てきたことですが、本当にその通りなのです。日々の生活のなかで、イエスとともに暮らし、信頼し、おまかせし、祈ること。ご復活のときだけではなく、いつもそうすることが大切です。

光の祭儀 キリストの復活を伝える「火」

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4月19日(土)、ご復活祭の前夜にあたる聖土曜日の夜に、復活徹夜祭が行われました。復活徹夜祭の典礼は「光の祭儀」「ことばの典礼」「洗礼の典礼」「感謝の典礼」の4つで構成され、通常のミサよりも長い時間がかかります。

とくに印象的な「光の祭儀」においては、まず聖堂の外で「火」をおこし、司祭が祝福を与えます。次に「復活のろうそく「十字架」とギリシア文字の「A(アルファ)」「Ω(オメガ)」そして「年号(西暦)」が刻まれます。

続いて、祈りの言葉とともに5つの印がつけられます。この印はキリストが受けた5箇所の聖なる傷を表します。そして祝福された「火」がこの「復活のろうそく」に移されます。

司祭と会衆は「復活のろうそく」を千頭に行列をなして聖堂へ入り、「火」は会衆の持つろうそくに移り、やがて聖堂全体がろうそくのしずかな光で照らされます。この「光の祭儀」は東方教会を起源とし、カトリックでも1500年以上続けられてきた祭儀です。

ご復活祭に来られる方へのご注意

ご復活祭のミサは4月20日(日)、午前10時より行われますが、この日は午前11時からのミサはありません。

当日はボーイスカウト、ガールスカウトが参加するため、園庭での活動場所の確保のため、園庭の駐車場利用は出来ませんのでご注意ください

ミサ終了後のイースターパーティーをマリア幼稚園のホールで行いますので、以下のご準備を必ずお願いします。
・スリッパまたは上履き
・靴袋(スリッパなどを入れる)

ガブリ神父様のお説教-私たちとともにいる神

カトリック赤堤教会ではこの春、主任司祭が交代します。あたらしく主任司祭になってくださるのがジャン・ガブリ神父様です。当教会に来られる前はカトリック弘前で主任司祭をしておられました。

今回の動画はガブリ神父様の赤堤教会での2回目となったお説教です。
話の中心は、イエスの最後です。イエスが十字架にはりつけにされ、息をひきとる前に叫んだ言葉。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この言葉は、これだけの意味ではない、ということ。

そして、イエスがわたしたちを愛し、わたしたちの罪のために自分を犠牲にされるのですが、、最後の最後まで、ゆるぎない主への信頼に貫かれていたという事実。イエスは時代劇でよく見る幕の影に隠れた貴人などではなく、幕の手前で、わたしたちとともにいて下さる神なのだということについても強調されました。

枝の主日 聖週間の初日でした

今日は復活祭の一週間前の主日にあたり、枝の主日という祝日でした。聖週間の初日です。この祝日は、イエス・キリストがロバに跨り、エルサレムに入城したときを記念するものです。

ヨハネによる福音書には次のように書かれています。

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」

イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 (ヨハネ:12章12-16)

私たちは、毎年、イエス様のエルサレム入城を想起し、その後続く、聖週間に起きたことを追体験するために、この祝日を大切にします。聖歌は次のものを歌います。

カトリック聖歌集#196「棕櫚の葉を手に」

棕梠の葉を手に持って 救いの主を迎えよ
喜びのほめうたを ホザンナと声高く

天と地を統べたもう ダヴィドの末なる君
ろばにまたがり エルザレムへと

棕梠の葉を手に持って 救いの主を迎えよ
喜びのほめうたを ホザンナと声高く

天と地の造りぬし 望みの光りの君
朝日かがやく エルザレムへと

信徒のご質問に答えて 「苦しみの意義を考える」

十字架のマリアさまのお姿を見つめながら、
苦しみの意義を考えて

(ロワゼール神父様プリントより転載)

先日、第二回の黙想会の場で、ある方からご質問をいただきました。障害のあるその方は、毎日の辛さの中に失望を感じ、早く死んだ方がましではないかと言われました。時間の関係で、言われたことについて、断片的に答えただけですから、もうちょっと詳しく言わせてもらいたいと思います。お慰めとおちからになれば、幸いと思います。

20140412

◆苦しみと死は、神さまの恵みでも、神さまの望みでもない
主の祈りのはじめのことばにあるように、イエスは、「神」が父であることを何回も教えてくださいました。十字架の上でさえ、イエスは「父よ」と叫びます。だとすれば、どうして、父である神が自分の子どもに、恵みとして、苦しみと死を望むことがありえましょうか。

「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7.11)

さらに、神さまは母とも言える御方です。母親が自分の子どもに不幸を望むはずはありません。かえって、母親は、自分のこどもが苦しんでいる時に自分も苦しみ、その子が死んでしまえばなかなか慰められません。イエスさまも、父(母)である神さまも、私に苦しみと死を望んでいるではなく、私たちと共に苦しみ、人の死を悲しむのです(ヨハネ11.34-35:ラザロの死、参照)。

これは、私たちが信じている神の性格です。あわれみ深く、いつくしみ深い神です。この信仰は大変大事です。キリスト者の神です。もし、これと別な神を信じていたら、あなたはキリストの神でない者を信じていることになります。気をつけないと私たちは、神を権力をふるっている独裁者のような者、虐待者のような者にしてしまいます。

◆苦しみと死の元
悪とか、そこから出てくる被造物のすべての病、苦しみと死とかは、神が望んでいることではありません。というのは、今、私たちが生きている世界は神が望んだ世界ではなく、さらにこの世界は、神が創造なさったものではないとさえ言えます。

もともと、神が、創造なさった世は、微笑みの世、友愛の世、分かち合いが欠かせない世です。心から心へ、愛情から愛情へ、義理を知らない真心が交わる世でした。また、神が造ったもののすべては「恩恵」です。宇宙も、地球も、石も、植物も、動物も、そして私たち人間も、神からの恩恵です。大恩恵です。

ところが、ここが問題です。
ヨハネの福音書のはじめのところに、こう書いてあります。「光は暗やみの中で輝いている。暗やみは光を理解しなかった。」(ヨハネ1.5)。もちろん、ヨハネの言う光とは、イエス・キリストのことであり、暗やみとは、当時、イエス・キリストを認めなかった「世界」です。

むかしも今も、繰り返されている問題ではありませんか。人間は、神(光)に従って歩もうと思うより、神のようになろう、結局、暗やみを選んでいるのではありませんか。一度、父なる神を捨てている人間は闇から闇へ、苦しみと死の地獄まで作ってしまいます(ルカ15.11ー16、放蕩息子の例え、参照)。

◆人間の苦しみと死に意義はあるのか?
イエスの苦しみと十字架の上の死は、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15.13)」とイエスご自身のことばにその意義があるでしょう。ここは、もちろん「友」とは、私たち人間で、「自分」とは、キリストでしょう。これによって、神の愛の神秘に入るのです。

さきに書きましたが、子どもの苦しみを自分の苦しみにしている母のように、真の人間になった神は、すべての人間の苦しみを背負って死んで、「十字架の上で死んで」、友である人類を暗やみから光へと導いてくださいます。

それにならって。自分の苦しみと病はどう受けとめたらよいでしょうか。繰り返しますが、自分の体と心に感じる痛みは、けっして恵みではありません。しかし、苦しみによって、人は新しい「使命」を見出すことがありえます。これはキリスト者の特権と言えると思います。もちろん、だれでも、こんな使命を悟ってはいないでしょうが。

どんな「使命」でしょう。わたしは、イエスの十字架の下におられたマリアさまの姿を参考にしたいと思います。自分のいのちよりも、イエスのいのちを大事にしたマリアは、十字架の下でどんなに苦しんだでしょうか。

先ず、こころの痛みもあったでしょう。そして、マリアの心の苦しみは全身を覆ったのではないでしょうか。しかし、「剣で心を刺し貫かれたように(ルカ2.25)」、死ぬほどの聖母マリアの苦しみは、彼女に与えられた偉大な使命でした。それは、その子の救いのみわざの協力者の使命でした。

マリアさまにならって、完全な愛のうちに世の終わりまで人類のために自分をささげ続けているキリストとともに、私たちも、愛のうちに「友のために」自分自身の苦しみをささげる「使命」があると自覚することができます。そう悟っていたら痛みそのものは消えることはないでしょうが、生きるためのちからと素晴らしさをあらたに見いだすことができるのではないでしょか。

(ロワゼール神父様プリントより転載)

黙想会第二回「永遠に渇くことのない水を求める」

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
(ヨハネによる福音書4章7-15)

3月23日(日)、カトリック赤堤教会で黙想会の第二回が行われました。ロワゼール神父様による指導のもと、ヨハネ福音書4章をとりあげ、1)永遠に渇くことのない泉からの水に預かることや、祈りと秘跡の関係、2)霊をもって拝むこと、キリストを愛している祈り3)サマリアの女の宣教の仕方、などについてお話を聞かせていただきました。

◆ダイジェスト

先週に続いてヨハネによる福音書を読みます。先週の20章では場面は夜でしたが、4章では昼です。内容は水と関連しています。
イエスとサマリア人の女との出会いは、いろいろな見方ができます。男女の出会い、神と人類の出会い、違う文化どうしの出会い、違う宗教どうしの出会いなど。しかし、ヨハネの福音書におけるイエスとサマリア人の女との出会いは、何よりも、愛情(水)を求める人間と、それを与える神との出会いでした。

◇水を与える人とは?
出エジプト記の17章でも、人々から水を求められたモーセが、神のことばどおりに岩を打つと、水が出たという記述があります。このときの「岩」は、新約聖書ではキリストになります。

◇イエスも水を求めている
イエスも何かを求めていたと思います。サマリア人との会話でしょうか。旅のつかれをいやすこと、あるいは乾いた喉を潤すことでしょうか。イエスは愛の渇きをいやしてもらいたかったのではありませんか。
十字架につけられたイエスの叫びに「渇き」を感じるとき、それは世界を見たイエスが、人々からの愛を強く求めていたからではないでしょうか。人間にとって大切な水。しかし愛もそれに等しく大切。

◇イエスの与える水
「永遠に渇くことがない」水とはどんなものでしょうか。神(聖霊)が人に与えるいのちと関係しています。生きるためにどうしても水が必要であるように、霊的に、また精神的に生きるための「水」が必要。キリストの愛の泉から湧き出る水が必要。その水があふれる泉こそ、毎日のイエスとの出会いである祈りと御言葉です。そして、私たちは、とくにミサとご聖体に預かることによって、その機会をいただくことが出来るのです。

”復活桜”のこと

最近の嵐で、マリア幼稚園の桜の枝がたくさん落ちてしまいました。花も咲かせないうちに残念だなあ、そう思っていたところ、うちの教会の“花名人”であるロワゼール神父様がやってくれました。

落ちた枝を集めて花瓶に差し、暖かい部屋に約2週間置いたところ、なんときれいな花を咲かせたではありませんか。主日のミサにあずかった信徒は「イースターの復活桜だ!」と驚き、その可愛らしい姿を大いに楽しみました。命の不思議さ、神父様の愛情に脱帽です。

あきらめずに愛情を注ぎ続け、最後には花を咲かせる。まるで主イエスと私たち人間のようですね。四旬節の良い思い出になりました。

ロワゼール桜1

ロワゼール桜接写1

文責:アントニオM

黙想会第一回 「新しく生まれなければ 神の国をみることはできません」

mokusoukai2014

イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子(でし)たちの前で行われた。 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。(ヨハネによる福音書 20章30-31節)

3月16日(日)、カトリック赤堤教会で黙想会が行われました。ロワゼール神父様による指導のもと、ヨハネ福音書20章をとりあげ、1)キリストを見続ける私たちの信仰、2)律法や権威に立脚しない師イエス、3)新たに生まれなければ神の国に入れないこと、などについてお話を聞かせていただきました。

◆ダイジェスト
地上のことで人間は本当には救われない。天上のことで本当に救われる。神をみるまで、宇宙全体が神をみるための鏡であるかのよう。素晴らしさを繰り返しみる。そして四旬節に、十字架のキリストを見続ける。復活を信じてキリストを見る。もっと深く、もっと心の底で感じる。キリストをじっと見続ける。そのためには、祈ること、黙想することが大切。黙想は祈りそのものではないが、日々のなかで、神と向き合う唯一の機会かも知れない。

行動がいいから救われる?そうではなく、恵みによって救われる。神が人間に何を約束されたか?人間の本当の幸せだった。御一人子を世につかわすほどこの世を愛されていた御父。人間は自分の力では救われない。御父とイエスをあがめる信仰のなかで、新たに生まれなければ救われない。

◆教皇フランシスコの「福音のよろこび」より (神父様の仮訳)
「その押しつぶすような、大量の消費に誘われている現代の人類の大きな危機は、自己満足、小指1本動かさないという精神、いわゆる個人主義的な悲しみにあり、浅はかな楽しみの病んだ欲望、孤立した良心にあります」

「キリストが自分のところに来るのを受け入れるように、毎日、絶えず、キリストをさがしもとめるようにと願います。……主の与える喜びからは誰も外されていません。…繰り返しますが、神は決して、私たちをゆるすことをあきらめはなさいません。77回まで人をゆるすことを私たちに求めた方ですから、同じく77回は私たちをゆるしてくださるはずです。…どんなことがあっても、イエスの復活からはなれずいましょう。どんなことがあっても、キリストによるエネルギーほど、私たちを前に、希望に向かって進ませて下さる存在はほかにないのです」