年間第27主日 ガブリ神父様のお説教

 

信仰というものは自分の生き方そのものです。仕事、家庭、病気、死について、私たちは信仰にもとづいた見方をするものです。私たちは他の方と同じ社会に生きているけれども、キリスト者としては見方が違ってきます。

私たちは、とっても成功した時は神に感謝し「これは神さまのおかげです」と言います。「神さまは必要な時に恵みを与えて下さると信じています」と言います。また、つらいときや失敗したときは、神さまが必ずゆるしてくださると信じます。回心すればチャンスをいただけるし、人生の最後に死ぬとき、死は新しい永遠のいのちへの出発と信じ、勇気づけられます。それが私たちの生き方です。

ただ、そんな信仰生活のなかでも、自分には信仰が足りない、信仰がうすいと感じるときがあります。

第1朗読で読まれるハバクク書では、「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに あなたは助けてくださらない」との助けを求めて叫んでいます。

困難な状況が続くとき、願いがかなわなかったとき「やっぱり神さまはいないのか…」などとがっかりすることはありませんか。または神を疑わないまでも、信仰のあついうすいの問題として考えることはよくあります。本日の朗読によると、それは間違いということになります。イエス様にとって信仰とはたとえ小さなものでも、山を動かすほどの力を秘めているのです。

福音書では、「信仰を増してください」との使徒たちの願いに、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われています。

私たちの信仰を考えるとき、自分の中にある「からしたね」に思いをはせる必要があります。
そして、パウロがエフェゾ教会の司牧者であった若いテモテに語った言葉を思い起こしたいと思います。

「神の賜物(たまもの)を、再び燃えたたせるように」
「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください
「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」

 

神に感謝。