ケニアからトー神父様が一時来日

ケベック外国宣教会のトー神父様が一時的に来日。不在中のガブリ神父様に代わり、ミサを司式してくださいました。また、ケニアで宣教中のインド・ケララ州出身の神父様2名も共同司式してくださいました。

赤堤教会で日本語を勉強してから東北に赴任したトー神父様でしたが、約4年前に日本を離れ、現在はケニア管区で活躍されています。トー神父様は日本語も完璧におぼえていらっしゃいました。ひとなつっこい、あの笑顔を久しぶりに拝見することができて、信徒一同、胸がいっぱいになりました。3名の神父様方、本日はありがとうございました!

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三位一体の祝日 ロワゼール神父様のお説教

みなさん、赤堤教会に長いこと通っていると思いますが、聖堂の左側にある、木製のレリーフに気が付いていますか。その意味をご存知ですか。このレリーフは3つの部分からなり、一番上には、雲の中から伸びる手の姿があります。これは神様のしるしであり、創造主である、父なる神のしるしです。二番目には、聖霊が鳩の形をしています。いちばん下に、十字架があります。これは三位一体をあらわしています。このレリーフは、ミサの度に、私たちが信じている神について思い起こさせてくれます。

三位一体とはどういうことでしょうか。それは、私たちの生きている世界の中には、ないようなことです。今日の祈りのなかに、神さまは唯一である、と同時に三位であると言われています。

じつは愛というのは、相手がなければ愛することができません。愛はいつも誰かを愛しているものです。愛が自分の心の中だけのものなら、それはエゴであって、愛ではありません。愛と恋は違います。恋はどうしても自分中心の感情ですが、愛は相手がいなければ生じない、感情または精神です。

神さまがただ自分だけのことを考えるような方なら、神さまの中に愛はなかったでしょうね。でも実際には、愛は、神さまの存在そのものといってもいい。私たちが造られたとき、私たちは神さまに似せた姿なので、その神さまの愛は私たちにも注がれました。「神を愛し、隣人を愛する」という、私たちのもっとも大切な決まり。私たちの信仰の根本的な精神がここでつくられたのです。私たちは、神に似せて造られたのですから、愛を人に与えることは当然の行いなのです。

皆さんは、この社会のなかで一人暮らしの人が多く、孤独な人が多いことを知っていますね。でも、私たちもときどきは一人でいたくなります。静かに自分の心をのぞくことが必要なのです。大自然の中に入り、静けさと向かいあうとき、自分の心が養われていくことは事実です。考えてみれば、そのとき相手は静けさ、花、自然なのですが、これらの被造物とのコミュニケーションによって、自分が豊かになるということなのです。そして自分の日常の場所に戻り、また人と接するとき、その豊かさをもって、関わり合いがもっとうまくいく。皆さん、そういう経験はありませんか。

ひとりぼっちという言葉があります。一人ぼっちな人は、人とのコミュニケーションがなかなかうまく出来ず、その結果、自分の存在が人から認められないと感じてしまう、そんな状態のことです。
わたしたしが社会の中に出て行って出来る事は、いろいろあると思いますが、どんなときも、自分の心の中に三位一体、神の愛が存在していることを自覚することは大切なことです。自分の中に愛を持ち、その愛がもっと大きく育つように祈りたいと思います。

ほんとうに、皆さんの共同体のなかで、一人もひとりぼっちにならないように。そして、社会の中で、一人もひとりぼっちにならないように、皆様の働きが求められています。そのために、私たちの心にある三位一体の存在を実感することが必要なのではないでしょうか。

復活したキリストが、いつでもどこでも一緒にいてくださる

わたしたちはいつも思います。救い主は常にわたしたちとともにいてくださると。
ある信者は主の啓示を明らかに感じ、ほかの信者は暗がりのなかの希望のように心に感じ、また、別の信者は哲学的・人生論的な帰結として、神がわたしたちとともにいることを受け入れています。

実際、このことは何度も聖書でくりかえされるのですが、今日(復活節第6主日)読んだ聖書の箇所には端的に書かれていますので、聖書の典礼の一部を抜粋いたします。

わたしは、都の中に神殿を見なかった。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。(黙示録21・10-14、22-23)

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14・23-29)

わたしたちの住む世界には神の愛が働き、神の栄光に満ちています。神を賛美し、神を信頼する日々。やはり、わたしたちの人生は神様とともにあります。

ご復活おめでとうございます

今年もご復活祭を迎えました。おめでとうございます。
しかし、「復活」といっても、いまこの世界のどこかでイエスが生き返ったわけではありません。わたしたちキリスト者は、信仰の中心的な出来事である「復活」を記念するために毎年復活祭を祝うのです。では、教会ではなく、わたしたち個人的には「復活」とは何でしょうか。この答えは人によってさまざまでしょうが、東京のある教会の神父様が次のように書かれています。

「イエスさまの復活にあずかるなら、わたしたちもイエスさまと一緒の向きで、一緒の眼差しの中に入って、生きることになります。つまり、悪人にも善人にも、正しい人にも正しくない人にも「神さまが共におられる」という真実を見て生きる者になるということです。」

「イエスさま、つまり「人間の中に神さまが共におられることを認める眼差し」は、死によっても決して滅びませんでした。このお方が、今日、わたしたちと一緒にいてくださいます。」
(カトリック麻布教会HP 主任司祭 パウロ三木 稲川圭三 神父)

ご復活祭は、わたしたち一人ひとりにとって、さまざまな意味を持っています。この日を世界中の人々と共有できることを神に感謝したいと思います。

あまりにうれしいので、今回は珍しくゴスペル版の詩編25を紹介します。皆様、素敵なご復活祭お過ごしください!アーメン、ハレルヤ!

過越の聖なる三日間と復活

いよいよ聖週間が始まりました。あらためて、聖週間の意味について思い返したいと思います。

キリストの受難と復活を記念する聖なる過越の三日間は典礼暦年の頂点となっています。この三日間は、十字架につけられ、葬られ、復活されたキリストの「聖なる三日間」であり、それは「主の晩さんの夕べのミサ」から始って、復活主日の晩の祈りまでの全過程をさし、受難と十字架を通して、死から生命へ移られるキリストの過越の神秘を祝う三日間です。聖週間とも呼ばれています。個々の日について以下をご覧ください。

主の晩さんの夕べのミサ(聖木曜日): キリストが聖体、ミサ聖祭、司祭職の秘跡を制定した最後の晩さんの記念を行います。ミサの中では任意の洗足式と聖体安置式があり、具体的な神の愛としての聖体と兄弟愛を思い起こさせます。(※教会によっては洗足式は省略されます)(赤堤教会 4月18日(木)19:00)

主の受難(聖金曜日): キリストの御受難御死去の記念日です。キリストの死を黙想するとともに、十字架の勝利を賛美するために十字架の顕示の後に、十字架の礼拝式が行われます。
なお聖金曜日と聖土曜日は主がご死去し、墓に安置された日であるという古来の伝統に基づき、この両日にミサは行われません。(※イエス様が亡くなったため、いつものにぎやかな日曜日とはうってかわって、教会ではほとんどの人が声を低くしてお話しします)(赤堤教会 4月19日(金)19:00)

復活の聖なる徹夜祭(聖土曜日): 古来の伝統に基づき、今夜は神のために守る徹夜とされています。(実際には徹夜ではなく、夜の祭儀です)参列者はあかりをともして主の帰りを待つことをあらわすために「光の祭儀」(第一部)があり、それに続いて聖なる教会は、神が始めからご自分の民のために行われた偉大なわざをしのびつつ、また神のことばと約束に信頼しつつ徹夜を行い(第二部、「ことばの祭儀」)、やがて復活の日が近づき、洗礼によって生まれた新しい教会の成員(第三部、「洗礼式」)とともに、主が死と復活を通して私たちのために準備された食卓に招かれる「感謝の典礼」(第四部)が行われます。(※厳かな式です。洗礼を受ける方のために、みんなが声を合わせ諸聖人に祈り続けるシーンは感動的です。)(赤堤教会 4月20日(土)19:00)

復活祭(復活の主日):十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な祭。(※「ご復活おめでとうございます!」「おめでとうございます」教会は一年でもっともにぎやかな雰囲気に包まれます)(赤堤教会 4月21日(日)10:00)