赤堤教会 4人の成人を祝う/聖書をプレゼント

カトリック赤堤教会では今年、4人の信徒が成人を迎えました。今日のミサでは、この半分の2人がミサにあずかり、ガブリ神父様より直接祝福を受け、お祝いの聖書をプレゼントされました。

「皆さん、お気づきでしょうが、成人となると、これまで親からいただいたものを豊かにして、社会に活かすことが求められます。…しかし、基本となるのは、私たちは神様から愛されているということです」(ガブリ神父様)

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(成人の祝福の風景)

また、この日の第一朗読はガブリ神父様が旧約聖書でもっとも好きな個所だそうで、キリスト者として、とても励まされる聖句としてご紹介されました。

『主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。 』(イザヤ書55章賞6-11節)

 

初めての集会祭儀レポート

ガブリ神父様が土曜学校のキャンプで不在のため、8月3日(日)は当教会ではミサは行われず、初めてとなる集会祭儀が行われました。 集会祭儀では司祭がいないため、感謝の祭儀は行われず、言葉の祭儀が中心となります。 今回は進行役、聖体奉仕者、聖書朗読は信徒で分担、お説教はカノッサ修道女会のシスターにお願いしました。

開祭後、進行役の方から、集会祭儀とミサとの相違の説明があり、聖歌、聖書朗読へと進みます。お説教はシスター。笑い話を交えながら、フランシスコ教皇様の言われる福音の喜び、「お説教」についてのお話し。

その後、司祭による感謝の祭儀はなく、聖体拝領は、あらかじめ聖変化していたパンを、聖体奉仕者からいただきました。交わりの儀、閉祭へと続き、全体は約50分で終わりました。

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終了後、集会祭儀に参加した信徒から、次のような感想が聞かれました。

「いつものミサと違うので少し不安でしたが、不思議な暖かい雰囲気がありました」
「つい『また、司祭とともに』って言っちゃう。」

この日は、共同体として、心をひとつにして祈ることの大切さを再認識する機会となりました。これも、お恵みであったと思いました。

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年間第16主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>

私たちは神様の愛を多く考えていますが、今日は人間への愛の話です。
神に従う人は、人間への愛を持つべきことを、神が教えてくれます。

人間への愛を持っていたら、神への愛になります。人間らしい生き方ほど、神に近づく生き方です。

昨日、テレビにシスター渡辺が出ていました。シスターはいまや一般的な有名人です。その著作「置かれたところで、咲きなさい」「面倒だから、しよう」(※ともに幻冬舎刊)が大きな反響を呼びました。

私がシスターに“素晴らしいお話”を期待したのも当然でした。しかし、実際にお話されたことは、本当に“人間らしいお話”でした。例えば、疲れて帰ったときに、「おかえりなさい」が言われずに、腹を立てたこと、またピーマンが苦手なことなどでした。

もちろん、お父様のお話には感動しました。(※9歳の時に二・二六事件に遭遇。父(渡辺錠太郎:教育総監)と同じ居間にいたところ、青年将校が襲撃。43発の銃弾が父親の命を奪った。)

50代でウツ病、60代で膠原病になりました。この時期シスターは、本当に人のことを理解できるようになったそうです。いま学生と話すときも、そのときの体験がもとになっています。修道女が“人間”になった後、人間として、ほかの人間に働きかけているのです。

今日の朗読に出てきた神、イエスは、わたしたちより“人間的”でした。“人間的な生き方”の模範を示されましたた。

イエスは小さいものから神の国を創ろうと話されました。人間は急に大きなことはできない、少しずつ、小さいものからつくりあげるとおっしゃっています。

私たちの神、イエスに人間のような性格があることを、あらためて理解しましょう。

神様といえば強い方、なんでも出来る方というイメージを持つものですが、私たちの神であるイエスは、自分を犠牲にして、人間を愛し、人間を大切にする生き方をされました。本当の意味で“人間的”でした。このことを思い出すとき、私たちの心の深いところで、希望と支えになるのではないでしょうか。

年間第15主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、よい土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい」(マタイによる福音書 第13章3-9)

 

今日のマタイの福音書で引用されているイザヤの言葉も、私が聖書のなかで好きな言葉です。(「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」)

私たちは神の言葉を聞きますが、それで本当に、実りをもたらすことができるでしょうか。ミサで、私たちは神の言葉を聞きますが、それが信仰者としての栄養になるでしょうか。教会を出たらもうおしまい、ということになってしまわないでしょうか。

私も同じです。ミサの説教を一所懸命に準備して、ミサが終わったら、あー終わったなあ、良かったなあ、あとは来週やろう…と。それで終わってしまうようなことですね。

しかし、ミサで聞いた言葉は、自分でも知らないうちに、私たちの一週間の支えになっていると思います。

これから3週続けて、マタイのたとえ話を読みます。
マタイの7つのたとえ話は、神の国の存在と、神の国の成長について話をしたかった。
イエスは、もしかしたら、なかなか理解しない弟子たちと一般のひとたちのために、たとえ話をしたのかも知れません。

さっき朗読した個所ですが、おなじことを何度もくりかえして、みんながびっくりしないかなと思っていました。神父様、何回も同じことを話して、今日はおかしくなっちゃったって思われたのではないかと(笑)。

種をまく人が種をまきに出て行った。
種をまく人が出ていかないと、何にもならないです。

畑の前にすわっていても、野菜はうまれないし、育ちません。
ほんとうに作物をつくるときは、土をととのえ、うねをつくり、ビニールシートをしいたりします。

種をまくひとは、信頼をもって、よく実るように期待します。
ですから、大事なのは種をまくこと。
神の言葉を聞いて、私たちも出て行きましょう。

あの人、まだ聖書の話を聞いてくださる状況じゃないかも知れないと思うこともあるでしょう。でも、その人の状況を考えるよりも、きょうのイエスの言葉を聞いて、先に種をまきましょう。実らせるかどうかは、その人次第です。

イエスが天国から来たとき、人間が受け入れる状況だから来たわけではありません。それでも、イエスが私たちの間に生まれ、私たちの間を歩いた。もちろん、イエスの実りとなったところは大喜びです。イエスが種をまいた人は、私たちの先輩です。

種は、知らないうちに実ります。
ですから、私たちも同じようにまきましょう。

パウロが言うように、そのなかでは苦しみがあるかも知れません。
でも、その苦しみをこえて、実ります。

こころのなかにまかれた種にも感謝しましょう。
親から、友人知人から聞いたことを思い出して、
心をひとつにして感謝しましょう。

今週は精いっぱい種をまきましょう。
力のないときは、神様の力を借りて、まきましょう。

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(洗礼者ヨハネの説教より)

 

聖霊降臨の主日 ガブリ神父様のお説教

ガブリ神父様が約1か月の休暇を終えて、赤堤教会に戻っていらっしゃいました。カムバック後、第一回のミサとなる本日は、子どもとともに捧げるミサ。そして、聖霊降臨の主日でもあります。このおめでたい日に、神父様がご用意されたのは、なんと「アメっこ」(飴)でした。カナダのお土産として、メープルシロップ入りのおいしいアメを、ミサでお配りになりました。

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「ミサでご聖体をいただくのは、初聖体が済んだ人だけです。それ以外の人は何ももらえない。ちょっとさびしいなとずっと思っていましたから、今日は特別ですよ。あと、大人の人にもありますから安心してくださいね(笑)」(ガブリ神父様)

思いがけないプレゼントに喜びつつ、カナダから帰国された神父様とともにミサで神に感謝をささげました。そして、聖霊の働きがみんなのうえにあるように祈りました。