復活節第2主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>
故人を偲ぶため家族、知人が集まる。弟子たちも同じように集まった。
イエスが十字架の苦しみを受けて亡くなったことは、受け入れ難いこと。
しかし、復活という素晴らしい知らせを、弟子たちは伝え始めた。
弟子たちの集まりが教会になり、現代の私たちはその続きである。

私たちはイエスのことを話し、思い出しながら、体をいただきながら、
教会とはどんなものかを学んでいる。まだ完全ではない。

トーマスはイエスの生前は神様だと言っていたが、十字架の死を見てからは
もう信じられなかった。しかし、弟子たちといっしょに話し、イエスのことを話し、
復活したイエスを見たという仲間の弟子の証言を聞き、トーマスも信じるようになった。
私たちにはペトロのように熱心なときも、トーマスのように怠けてしまうこともある。
しかし、弟子たちと同じように集まり、イエスのことについて話し、
体をいただきながら、教会を少しずつ作っている。

イエスと同時代の「初代教会」には素晴らしいイメージを抱く。
みんな仲良く、自分のものを分け合い、いっしょに祈り、イエスについて話す。
自分もその中に入りたかった、と思う。
しかし、もう少しみると、いろいろ課題はあった。
イエスの教えをどう日常生活に活かせるかを一生懸命に考えていた。
この悩みは、初代教会の信者も私たちも同じこと。

復活したイエスを、私たちに命を与えて下さったイエスを、
喜びと真心をもって、どうあらわせばいいのか。
弟子たちと同じ喜びと真心を持つことができるように、
また証しすることが出来るように、
神様の恵みと力を願い求めましょう。

教皇ヨハネ23世・教皇ヨハネ・パウロ2世列聖式

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教皇ヨハネ二十三世・教皇ヨハネ・パウロ二世列聖式

復活節第二主日(神のいつくしみの主日)の2014年4月27日(日)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコは教皇ヨハネ二十三世(写真右)および教皇ヨハネ・パウロ二世(写真左)列聖式ミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。列聖式には150名の枢機卿、700名の司教、名誉教皇ベネディクト十六世が参加しました。

*教皇ヨハネ二十三世:アンジェロ・ロンカリ 1881年11月25日-1963年6月3日、教皇在位1958年10月28日-1963年6月3日
*教皇ヨハネ・パウロ二世:カロル・ヴォイティワ 1920年5月18日-2005年4月2日、教皇在位1978年10月16日-2005年4月2日

教皇フランシスコは、2013年7月5日、福者ヨハネ・パウロ二世が列聖される条件となる、その執り成しによる2つ目の奇跡を認める教令を認可し、また、福者ヨハネ二十三世の列聖も承認しました。ヨハネ二十三世は2000年9月3日、教皇ヨハネ・パウロ二世により列福され、ヨハネ・パウロ二世は2011年5月1日、教皇ベネディクト十六世により列福されています。

説教(カトリック中央協議会サイト)

教皇ヨハネ二十三世・教皇ヨハネ・パウロ二世列聖ミサの様子 3時間38分(バチカン)

教皇フランシスコによる列聖の宣言 1分25秒(BBCニュース)

<教皇略歴>

教皇ヨハネ二十三世

教皇ヨハネ・パウロ二世

2014年 ご復活祭

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2014年4月20日、カトリック赤堤教会で復活の主日を祝うミサがありました。ガブリ神父様、ロワゼール神父様、ラべ神父様による司式のもと、多くの方が、教会に集い、主の復活を祝いました。

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イエスの復活を象徴するイースターエッグは、新しく赤堤教会の主任司祭になられるガブリ神父様が祝別。

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今年の復活祭を最後に、6年半にわたり赤堤教会の主任司祭をつとめていただいたジャン・シャール・ロワゼール神父様は、仙台教区へ移ります。その神父様から、以下のようなメッセージをいただきました。

「私は着任後、ボーイスカウト、ガールスカウトもひとつになりたい、ひとつの兄弟、姉妹だと考えていました。みんな教会の家族です。……キリストの愛、神の国とは、みんなが一つの国 ひとつの家族になり、平和のなかに生きている国ということです。これからも、そのモデルを作っていって下さい」

●ロワゼール神父様のご挨拶

神父様、6年間ありがとうございました!



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■イースター・パーティー
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ミサ後のパーティーはマリア幼稚園のホールで行われました。ロワゼール神父様が今月から仙台教区に異動になるため、信徒、ボーイスカウト、ガールスカウト、マリア幼稚園、他教会の方も一緒に参加し、神父様との別れを惜しみました。

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信徒会から神父様へのプレゼントはタブレット型のパソコン「アイパッド」を贈りました。80歳にしては驚異的にパソコンに強いロワゼール神父様。アイパッドは、すらすらと使い方をマスターされたそうです。

会食に続き、神父様の歌の披露があり、最後は会場の全員で「花」を合唱をして終わりの時間となりました。お手伝いしてくれたボーイスカウトとガールスカウトのみんな有難う!パーティーのご準備をいただいた信徒の皆様お疲れ様でした。

そして、言葉では言い尽くせないほどの感謝を、ロワゼール神父様と、神様に…。本当にありがとうございました。神父様、いつまでもお元気で!

最後に、パソコンのことで困ったら、いつでもご相談くださいね!(総務ITチームより)


【思い出のワンシーン】

・ロワゼール神父様が赤堤教会に初登場した日
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(2009年9月撮影)

2014年復活の主日 ロワゼール神父様のお説教

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2014年4月20日 復活の主日
ご復活祭のミサ ロワゼール神父様のお説教
(動画は末尾に掲載しています)

今日は皆さん、卵をもらって帰りますよね。でも、どうして復活祭に卵があるのでしょうか。わかりますか。それは新しい命のシンボル、しるしです。この卵はゆでていますから、もう食べるしかないですけれど、親鳥が卵を産んだ後、温め続けていたらどうなりますか。ひなが産まれますね。ひなは自分のくちばしで卵の殻をツンツンとつついて割ろうとします。

みなさんは卵から生まれたものではありませんが、ある意味で、母の胎内から生まれたという点は共通しています。たまごから命が産まれるのは当たり前、自然ですと言われればそれまでですが、しかし世の中に命が生まれるというのは、物が倒れたり、転がったりするのとはわけが違います。どこかで「特別な何か」が働いているから、そうなるのです。

この鉢植えに生えている、ひょろ長い木がありますが、みなさん何の木だかわかりますか。秋になると黄色い葉が、落ち葉になる、、、、そう、いちょうの木なんです。教会の事務所の裏に、自然に生えてきたので、私はびっくりしました。きっと鳥が種を運んできたのかも知れません。

でも、この木の最初はとても小さな種でした。この先、いちょうは大きくなると数十メートルになります。一粒の小さな種から、あの大木が育つなんて、本当に不思議です。もちろん、わたしたちは日ごろから見慣れているので、いまは驚きませんが、もしこれを初めて知ったとしたら、あの桜や樫の木が、こんな小さな体から始まったという事実を最初に知ったならば、それは大きな驚きになると思います。奇跡です。

同じように、みなさん一人一人が生まれたことは奇跡なんです。どうして、小さな命が、この「鼻」や「目」に育っていくのか、不思議だと思いませんか。医学的にも不思議とされているのです。細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中教授という人が先日、NHKの番組に出演していましたが、はっきり言っていました。こんなことが出来るのは神様だけ。人間には出来ないこととおっしゃっていました。

科学者もそう思っているのです。科学者であれば普通は言わないことですけれど、それを言うというのは、この山中さんには相当な勇気があったと思います。たくさん実験して、たくさん研究して、結論は人間に出来ることではないと考えたわけです。

私たちは何のために生まれたのか。死ぬためか?死ぬために生まれたのだったら、何も待たずに死ねばいいという考えも出てきます。そう考える人は自殺するのだと思いますけれど。もちろん、皆さんは絶対にそういうことはしないで下さいね。だけれども、もうどうにもならない困難にぶつかったときに、自分の心がまいってしまったとき。人は何のために生きて行くのか、ということを考えざるを得ないのです。

私たちは、とにかく、または何となく、「生きたい」と思います。ごく自然に「明日も生きたい」と思う存在です。今日生きたけど、もうこれで終わり、とは考えたくありませんね。とくに若い人はそうですよ。みんなそうでしょ。明日死にたいなんて思う?誰も思いませんよ。

でもこれは人間だけなんですよ。犬に聞いてみたら、どう答えるでしょうか。おそらく明日も生きたいなんていう考えは、犬にはないです。人間だけにある」「考え」なんです。だから、私たちは、人間は、ただこの世で生きるというだけでは不十分なのです。誰でも考えれば分かる事です。

じゃあ、どうするか。そこで、今日のお祝いのことをちょっとだけ考えましょう。今日の福音、聖書の言葉はあまり明るいところではないですね。そのなかで、マグダラのマリアのことを考えましょう。彼女はイエスを愛していた、深く尊敬していました。だけれど、その愛情よりももっと深いものがあった。それは自分がイエスによって、本当に救われたからです。いやされたからです。

だからひどいやりかたで、イエスが十字架の上で殺されたのを見たときには、もう、どうしようもない気持ちになりますよ。墓に行って、イエスに祈るとき。どういう心境だったでしょうか。それは、真っ暗です。最悪です。自分の心が暗闇のなかに沈んでしまった、暗闇の中で、彼女は生きていたんです。墓へ行って見ると、イエス様がいない。どういうことでしょうか。

死んだような気持になったことがあるかも知れません。それは神様のせいじゃない。それは自分だけの思いです。マグダラのマリアは、ベタニアのマリアの後に、イエスに出会い、そして信じました。しかしイエスについては、自分の理想というか、勝手な思い込みが先に立ち、実際はよく知らなかった。イエスの弟子は、イエスが不思議なことをして、信じますが、マリアはそういう評判を聞いていた。そして、イエスに出会い、信じたから、また奇跡が起きた。(「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカによる福音書 08-02))

私たちについて言うと、私たちは、はっきりしたものだけを信じているのではありません。キリストの、神様の力を思い出して、信じる。私たちを創り出し、私たちに命を与えた方だから、私たちから命を取るという方ではないです。いつも、私たちにその命を与え続けて下さる方です。当たり前なのです。でも、当たり前だからこそ、人間はこのとても大切なことを忘れ、身勝手になってしまう。神様を忘れてしまう。人間はそういうものです。

今の世界を見て下さい。今はシリアでも、人同士が殺し合っている。そこで神様を見ることは出来ないです。私たちがごたごたして、いさかい合っているとき、そこで神様を見ることは出来ません。信仰がそこでダメになってしまう。もう、信じるどころではないです。イエスはその人間の身勝手さを知っていて、それを背負って十字架につけられました。そこまで、人間を愛していたからです。そして十字架の上で死に、復活することで、私たちも決して死ぬことはなく復活する、命がずっと続くということを示して下さった。それが神様のお考え、御旨(みむね)だから、そう示された。

私たちも、もうちょっとね、神様からの恵みを見つめなくてはいけません。毎日、忙しい忙しいといって神様を忘れてしまう。何のために働いているのか。もちろん、(お給料をもらう、社会や人の役に立つ等)直接的な意味があることは知っていますし、それらは素晴らしいことですよ。神様がみなさんに、そうしてほしいという思いがあるということも知っています。

だけれども、そのことだけをするのはおかしい。そのなかで、神様から命を与えられたということを、どこまで思い出しているか。もうちょっと、一番根本的なことを、自分の人生の根本を考えたらどうでしょうか。

神様は私たちに、一番大切なことを教えて下さいました。キリストは自分の友のために命を捧げました。その通りになりました。私たちのために、自分のすべてを与えられた。そして、ずっと私たちのそばにいる、ずっと私たちのなかにいると、そう約束なさったのです。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28-22)」

このことは現在も続いています。みなさん、そう感じているでしょうか、そう思っているでしょうか。そう思っていたら、絶望したり、失望したり、明日のことについて心配するということはないはずなんです。

今日ミサを捧げながら、神様の祝別、神様の体そのものをいただいて、私たちは養われました。私たち自身についてもっと真剣に考えながら、私たちには信仰が足りないと、もっと強めて下さいと、イエス様の前で言ってもいいんじゃないかな、と思います。
(原稿は書きおこしたものであり、お説教と部分的に相違する部分がありますのでご了承下さい。)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (1/2)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (2/2)

3名の受洗者の皆様 おめでとうございます!

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4月19日(土)の復活徹夜祭において、3名の方が洗礼を受けられました。ミサ後には、受洗者の方々の紹介が簡単にあり、信徒会からささやかな記念品が贈呈されました。

心よりお祝いを申し上げます。おめでとうございます。
ともにイエス様の弟子として、信仰の道を力強く歩いていきましょう!

生き返ったイエスを 恐れずに信じる

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2014年4月 復活徹夜祭
ロワゼール神父様のお説教より

創世記のなかで、いちばん最初に作られたものは何ですか?と聞くと、わからないとお答えになる人は意外に多いです。旧約聖書の創世記では、神は初めに天地を創造され、そして次に光を創られました。ただ、わたしは、原理を生み出すものとして、光が最初の創造物だと言ってもいいと思います。

というのは、光がなければ健康もない、光がなければ悩みもないです。世の中を照らし出し、理解させるという意味で、光は世界の根源といってもいいからです。そして私たちが祝う復活祭のなかで、光とは「復活の光」であり、それは主がキリストによって、世界を、私たちを照らして下さったということなのです。

さて、今日のマタイの福音書のなかにでてくる二人の婦人について、考えてみたいと思います。婦人たちはイエスが入れられた墓を見に行ったのですが、マタイの記述では、ただ(お墓に)「行く」と簡潔に書いてあります。言うなれば、お墓参りです。当然ですが、イエスは死んだ人と考えられていたはずです。イエスは死者のなかの一人とみなされていました。

ところが、墓の中にはご遺体がなかった。イエスの体はどこに行ったのか。これは、信じられないことです。ご婦人は最初は怖くなって逃げたと思います。でもあとで考え直したのです。天の使いの言う通りなら、イエスは生き返っていると。

彼女たちの考えは混乱し、二転三転したと思います。だって、イエスや他の弟子たちといっしょに生活していて、生活が出来上がっていたところ、その先生がつかまって、殺されてしまった。イエスに従っていた人々の希望や期待はいっしょに消えてしまった。悲嘆していたら、こんどはイエスが生き返って、墓から消えていた。彼女たちの信仰は完全ではなかったかも知れませんが、他の弟子たちにはイエスが生き返ったと伝えています。生身の人間にとって、きわめて大きな変化が続いたわけです。

このご婦人たちの人生が、イエスとの出会い、別れ、そして復活の奇跡との遭遇によって、大きく動かされたように、私たちの人生も、復活イエスとの交わり、生活の中でイエスを受け入れることで大きく変わります。イエスから遠く離れてしまうのではなく、友のように、話かけ、その存在を受け入れることが大切です。イエスを受け入れる人に対して、イエスは両腕を広げて迎えて下さいます。キリストの愛を求めるひとが、がっかりすることはありません。そのために、恐れずにイエスを信じることです。

自分のすべてをイエスにおまかせしましょう。イエスはいつも、あなたともにいて下さり、あなたに平和を与えて下さいます。これは約束です。だから、恐れることはありません。今日の福音のなかで2度出てきたことですが、本当にその通りなのです。日々の生活のなかで、イエスとともに暮らし、信頼し、おまかせし、祈ること。ご復活のときだけではなく、いつもそうすることが大切です。

光の祭儀 キリストの復活を伝える「火」

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4月19日(土)、ご復活祭の前夜にあたる聖土曜日の夜に、復活徹夜祭が行われました。復活徹夜祭の典礼は「光の祭儀」「ことばの典礼」「洗礼の典礼」「感謝の典礼」の4つで構成され、通常のミサよりも長い時間がかかります。

とくに印象的な「光の祭儀」においては、まず聖堂の外で「火」をおこし、司祭が祝福を与えます。次に「復活のろうそく「十字架」とギリシア文字の「A(アルファ)」「Ω(オメガ)」そして「年号(西暦)」が刻まれます。

続いて、祈りの言葉とともに5つの印がつけられます。この印はキリストが受けた5箇所の聖なる傷を表します。そして祝福された「火」がこの「復活のろうそく」に移されます。

司祭と会衆は「復活のろうそく」を千頭に行列をなして聖堂へ入り、「火」は会衆の持つろうそくに移り、やがて聖堂全体がろうそくのしずかな光で照らされます。この「光の祭儀」は東方教会を起源とし、カトリックでも1500年以上続けられてきた祭儀です。

ご復活祭に来られる方へのご注意

ご復活祭のミサは4月20日(日)、午前10時より行われますが、この日は午前11時からのミサはありません。

当日はボーイスカウト、ガールスカウトが参加するため、園庭での活動場所の確保のため、園庭の駐車場利用は出来ませんのでご注意ください

ミサ終了後のイースターパーティーをマリア幼稚園のホールで行いますので、以下のご準備を必ずお願いします。
・スリッパまたは上履き
・靴袋(スリッパなどを入れる)

ガブリ神父様のお説教-私たちとともにいる神

カトリック赤堤教会ではこの春、主任司祭が交代します。あたらしく主任司祭になってくださるのがジャン・ガブリ神父様です。当教会に来られる前はカトリック弘前で主任司祭をしておられました。

今回の動画はガブリ神父様の赤堤教会での2回目となったお説教です。
話の中心は、イエスの最後です。イエスが十字架にはりつけにされ、息をひきとる前に叫んだ言葉。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この言葉は、これだけの意味ではない、ということ。

そして、イエスがわたしたちを愛し、わたしたちの罪のために自分を犠牲にされるのですが、、最後の最後まで、ゆるぎない主への信頼に貫かれていたという事実。イエスは時代劇でよく見る幕の影に隠れた貴人などではなく、幕の手前で、わたしたちとともにいて下さる神なのだということについても強調されました。

枝の主日 聖週間の初日でした

今日は復活祭の一週間前の主日にあたり、枝の主日という祝日でした。聖週間の初日です。この祝日は、イエス・キリストがロバに跨り、エルサレムに入城したときを記念するものです。

ヨハネによる福音書には次のように書かれています。

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」

イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 (ヨハネ:12章12-16)

私たちは、毎年、イエス様のエルサレム入城を想起し、その後続く、聖週間に起きたことを追体験するために、この祝日を大切にします。聖歌は次のものを歌います。

カトリック聖歌集#196「棕櫚の葉を手に」

棕梠の葉を手に持って 救いの主を迎えよ
喜びのほめうたを ホザンナと声高く

天と地を統べたもう ダヴィドの末なる君
ろばにまたがり エルザレムへと

棕梠の葉を手に持って 救いの主を迎えよ
喜びのほめうたを ホザンナと声高く

天と地の造りぬし 望みの光りの君
朝日かがやく エルザレムへと