年間第16主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>

私たちは神様の愛を多く考えていますが、今日は人間への愛の話です。
神に従う人は、人間への愛を持つべきことを、神が教えてくれます。

人間への愛を持っていたら、神への愛になります。人間らしい生き方ほど、神に近づく生き方です。

昨日、テレビにシスター渡辺が出ていました。シスターはいまや一般的な有名人です。その著作「置かれたところで、咲きなさい」「面倒だから、しよう」(※ともに幻冬舎刊)が大きな反響を呼びました。

私がシスターに“素晴らしいお話”を期待したのも当然でした。しかし、実際にお話されたことは、本当に“人間らしいお話”でした。例えば、疲れて帰ったときに、「おかえりなさい」が言われずに、腹を立てたこと、またピーマンが苦手なことなどでした。

もちろん、お父様のお話には感動しました。(※9歳の時に二・二六事件に遭遇。父(渡辺錠太郎:教育総監)と同じ居間にいたところ、青年将校が襲撃。43発の銃弾が父親の命を奪った。)

50代でウツ病、60代で膠原病になりました。この時期シスターは、本当に人のことを理解できるようになったそうです。いま学生と話すときも、そのときの体験がもとになっています。修道女が“人間”になった後、人間として、ほかの人間に働きかけているのです。

今日の朗読に出てきた神、イエスは、わたしたちより“人間的”でした。“人間的な生き方”の模範を示されましたた。

イエスは小さいものから神の国を創ろうと話されました。人間は急に大きなことはできない、少しずつ、小さいものからつくりあげるとおっしゃっています。

私たちの神、イエスに人間のような性格があることを、あらためて理解しましょう。

神様といえば強い方、なんでも出来る方というイメージを持つものですが、私たちの神であるイエスは、自分を犠牲にして、人間を愛し、人間を大切にする生き方をされました。本当の意味で“人間的”でした。このことを思い出すとき、私たちの心の深いところで、希望と支えになるのではないでしょうか。

年間第15主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、よい土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい」(マタイによる福音書 第13章3-9)

 

今日のマタイの福音書で引用されているイザヤの言葉も、私が聖書のなかで好きな言葉です。(「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」)

私たちは神の言葉を聞きますが、それで本当に、実りをもたらすことができるでしょうか。ミサで、私たちは神の言葉を聞きますが、それが信仰者としての栄養になるでしょうか。教会を出たらもうおしまい、ということになってしまわないでしょうか。

私も同じです。ミサの説教を一所懸命に準備して、ミサが終わったら、あー終わったなあ、良かったなあ、あとは来週やろう…と。それで終わってしまうようなことですね。

しかし、ミサで聞いた言葉は、自分でも知らないうちに、私たちの一週間の支えになっていると思います。

これから3週続けて、マタイのたとえ話を読みます。
マタイの7つのたとえ話は、神の国の存在と、神の国の成長について話をしたかった。
イエスは、もしかしたら、なかなか理解しない弟子たちと一般のひとたちのために、たとえ話をしたのかも知れません。

さっき朗読した個所ですが、おなじことを何度もくりかえして、みんながびっくりしないかなと思っていました。神父様、何回も同じことを話して、今日はおかしくなっちゃったって思われたのではないかと(笑)。

種をまく人が種をまきに出て行った。
種をまく人が出ていかないと、何にもならないです。

畑の前にすわっていても、野菜はうまれないし、育ちません。
ほんとうに作物をつくるときは、土をととのえ、うねをつくり、ビニールシートをしいたりします。

種をまくひとは、信頼をもって、よく実るように期待します。
ですから、大事なのは種をまくこと。
神の言葉を聞いて、私たちも出て行きましょう。

あの人、まだ聖書の話を聞いてくださる状況じゃないかも知れないと思うこともあるでしょう。でも、その人の状況を考えるよりも、きょうのイエスの言葉を聞いて、先に種をまきましょう。実らせるかどうかは、その人次第です。

イエスが天国から来たとき、人間が受け入れる状況だから来たわけではありません。それでも、イエスが私たちの間に生まれ、私たちの間を歩いた。もちろん、イエスの実りとなったところは大喜びです。イエスが種をまいた人は、私たちの先輩です。

種は、知らないうちに実ります。
ですから、私たちも同じようにまきましょう。

パウロが言うように、そのなかでは苦しみがあるかも知れません。
でも、その苦しみをこえて、実ります。

こころのなかにまかれた種にも感謝しましょう。
親から、友人知人から聞いたことを思い出して、
心をひとつにして感謝しましょう。

今週は精いっぱい種をまきましょう。
力のないときは、神様の力を借りて、まきましょう。

senreisha20140719

(洗礼者ヨハネの説教より)

 

三位一体の主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>

みなさんは、わたしたちの神について、他の人から聞かれたらどう説明しますか。

神父様やシスターから聞いたことを伝えることはできますが、
自分自身の体験で、自分の神はどういう神か。これは、なかなか言葉になりません。
でも、そういうときは神様が助けてくれます。

今日の朗読の中に、素晴らしい神様の姿があります。

あわれみ深く、恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者。(出エジプト記34-4)

ときどき人から次のように言われます。
わたしはだめです、すごく悪いことをした、許されません。

そのとき思い出しましょう。

あわれみ深い神様
恵みに富む神様
忍耐強い神様
慈しみ深い神様

わたしたちより、忍耐強いです。
人間などより、はるかにあわれみ深い方です。

ただ聖書の言葉としてではなく、信仰生活の中で体験したさまざまなことを、
自分の体験として他の方にお話しすれば、パウロの言うように
私たちの生き方が変わっていくと思います。

よろこびをもって、平和をもって、生きる者になります。

神様は、愛と平和の神です。
神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
これ以上の愛の物語はありません。

三位一体(さんみいったい)というのは、愛の物語といえばいいのです。
わたしたちと神様、イエス・キリストのつながりは愛のつながりです。

神秘というのは、「理解できないもの」とわたしは子供のころに教わりました。
しかし、「理解できない」というより、深めていくものです。

わたしの父は牧場の仕事を朝から晩までしていました。
大勢の人が働いていましたが、感謝の気持ちを表さないひとでした。
母はそんな父に、ちゃんと感謝してくださいとよく言っていました。

母が先立ち、10年は父は独り暮らし。
父は試行錯誤して、母の味を真似て料理を作り始めました。
母の味をつくり、以前のように家族になりたいと思ったのでしょう。
それで、だんだんと父は変わっていったのです。
晩年、施設に入ってからは、ほとんど感謝の言葉ばかりでした。
私たちにとっては、まったく新しい父になっていました。

同じように、神秘もひとりひとりが、少しずつ深めるもの。
神様も、深めていくものです。

わたしたちがついていくイエスが、どういうお方か
少しずつ深めていきましょう。

 

聖霊降臨の主日 ガブリ神父様のお説教

ガブリ神父様が約1か月の休暇を終えて、赤堤教会に戻っていらっしゃいました。カムバック後、第一回のミサとなる本日は、子どもとともに捧げるミサ。そして、聖霊降臨の主日でもあります。このおめでたい日に、神父様がご用意されたのは、なんと「アメっこ」(飴)でした。カナダのお土産として、メープルシロップ入りのおいしいアメを、ミサでお配りになりました。

20140608アメ

「ミサでご聖体をいただくのは、初聖体が済んだ人だけです。それ以外の人は何ももらえない。ちょっとさびしいなとずっと思っていましたから、今日は特別ですよ。あと、大人の人にもありますから安心してくださいね(笑)」(ガブリ神父様)

思いがけないプレゼントに喜びつつ、カナダから帰国された神父様とともにミサで神に感謝をささげました。そして、聖霊の働きがみんなのうえにあるように祈りました。

 

 

 

復活節第2主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>
故人を偲ぶため家族、知人が集まる。弟子たちも同じように集まった。
イエスが十字架の苦しみを受けて亡くなったことは、受け入れ難いこと。
しかし、復活という素晴らしい知らせを、弟子たちは伝え始めた。
弟子たちの集まりが教会になり、現代の私たちはその続きである。

私たちはイエスのことを話し、思い出しながら、体をいただきながら、
教会とはどんなものかを学んでいる。まだ完全ではない。

トーマスはイエスの生前は神様だと言っていたが、十字架の死を見てからは
もう信じられなかった。しかし、弟子たちといっしょに話し、イエスのことを話し、
復活したイエスを見たという仲間の弟子の証言を聞き、トーマスも信じるようになった。
私たちにはペトロのように熱心なときも、トーマスのように怠けてしまうこともある。
しかし、弟子たちと同じように集まり、イエスのことについて話し、
体をいただきながら、教会を少しずつ作っている。

イエスと同時代の「初代教会」には素晴らしいイメージを抱く。
みんな仲良く、自分のものを分け合い、いっしょに祈り、イエスについて話す。
自分もその中に入りたかった、と思う。
しかし、もう少しみると、いろいろ課題はあった。
イエスの教えをどう日常生活に活かせるかを一生懸命に考えていた。
この悩みは、初代教会の信者も私たちも同じこと。

復活したイエスを、私たちに命を与えて下さったイエスを、
喜びと真心をもって、どうあらわせばいいのか。
弟子たちと同じ喜びと真心を持つことができるように、
また証しすることが出来るように、
神様の恵みと力を願い求めましょう。

2014年復活の主日 ロワゼール神父様のお説教

20140420復活祭お説教画像

2014年4月20日 復活の主日
ご復活祭のミサ ロワゼール神父様のお説教
(動画は末尾に掲載しています)

今日は皆さん、卵をもらって帰りますよね。でも、どうして復活祭に卵があるのでしょうか。わかりますか。それは新しい命のシンボル、しるしです。この卵はゆでていますから、もう食べるしかないですけれど、親鳥が卵を産んだ後、温め続けていたらどうなりますか。ひなが産まれますね。ひなは自分のくちばしで卵の殻をツンツンとつついて割ろうとします。

みなさんは卵から生まれたものではありませんが、ある意味で、母の胎内から生まれたという点は共通しています。たまごから命が産まれるのは当たり前、自然ですと言われればそれまでですが、しかし世の中に命が生まれるというのは、物が倒れたり、転がったりするのとはわけが違います。どこかで「特別な何か」が働いているから、そうなるのです。

この鉢植えに生えている、ひょろ長い木がありますが、みなさん何の木だかわかりますか。秋になると黄色い葉が、落ち葉になる、、、、そう、いちょうの木なんです。教会の事務所の裏に、自然に生えてきたので、私はびっくりしました。きっと鳥が種を運んできたのかも知れません。

でも、この木の最初はとても小さな種でした。この先、いちょうは大きくなると数十メートルになります。一粒の小さな種から、あの大木が育つなんて、本当に不思議です。もちろん、わたしたちは日ごろから見慣れているので、いまは驚きませんが、もしこれを初めて知ったとしたら、あの桜や樫の木が、こんな小さな体から始まったという事実を最初に知ったならば、それは大きな驚きになると思います。奇跡です。

同じように、みなさん一人一人が生まれたことは奇跡なんです。どうして、小さな命が、この「鼻」や「目」に育っていくのか、不思議だと思いませんか。医学的にも不思議とされているのです。細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中教授という人が先日、NHKの番組に出演していましたが、はっきり言っていました。こんなことが出来るのは神様だけ。人間には出来ないこととおっしゃっていました。

科学者もそう思っているのです。科学者であれば普通は言わないことですけれど、それを言うというのは、この山中さんには相当な勇気があったと思います。たくさん実験して、たくさん研究して、結論は人間に出来ることではないと考えたわけです。

私たちは何のために生まれたのか。死ぬためか?死ぬために生まれたのだったら、何も待たずに死ねばいいという考えも出てきます。そう考える人は自殺するのだと思いますけれど。もちろん、皆さんは絶対にそういうことはしないで下さいね。だけれども、もうどうにもならない困難にぶつかったときに、自分の心がまいってしまったとき。人は何のために生きて行くのか、ということを考えざるを得ないのです。

私たちは、とにかく、または何となく、「生きたい」と思います。ごく自然に「明日も生きたい」と思う存在です。今日生きたけど、もうこれで終わり、とは考えたくありませんね。とくに若い人はそうですよ。みんなそうでしょ。明日死にたいなんて思う?誰も思いませんよ。

でもこれは人間だけなんですよ。犬に聞いてみたら、どう答えるでしょうか。おそらく明日も生きたいなんていう考えは、犬にはないです。人間だけにある」「考え」なんです。だから、私たちは、人間は、ただこの世で生きるというだけでは不十分なのです。誰でも考えれば分かる事です。

じゃあ、どうするか。そこで、今日のお祝いのことをちょっとだけ考えましょう。今日の福音、聖書の言葉はあまり明るいところではないですね。そのなかで、マグダラのマリアのことを考えましょう。彼女はイエスを愛していた、深く尊敬していました。だけれど、その愛情よりももっと深いものがあった。それは自分がイエスによって、本当に救われたからです。いやされたからです。

だからひどいやりかたで、イエスが十字架の上で殺されたのを見たときには、もう、どうしようもない気持ちになりますよ。墓に行って、イエスに祈るとき。どういう心境だったでしょうか。それは、真っ暗です。最悪です。自分の心が暗闇のなかに沈んでしまった、暗闇の中で、彼女は生きていたんです。墓へ行って見ると、イエス様がいない。どういうことでしょうか。

死んだような気持になったことがあるかも知れません。それは神様のせいじゃない。それは自分だけの思いです。マグダラのマリアは、ベタニアのマリアの後に、イエスに出会い、そして信じました。しかしイエスについては、自分の理想というか、勝手な思い込みが先に立ち、実際はよく知らなかった。イエスの弟子は、イエスが不思議なことをして、信じますが、マリアはそういう評判を聞いていた。そして、イエスに出会い、信じたから、また奇跡が起きた。(「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカによる福音書 08-02))

私たちについて言うと、私たちは、はっきりしたものだけを信じているのではありません。キリストの、神様の力を思い出して、信じる。私たちを創り出し、私たちに命を与えた方だから、私たちから命を取るという方ではないです。いつも、私たちにその命を与え続けて下さる方です。当たり前なのです。でも、当たり前だからこそ、人間はこのとても大切なことを忘れ、身勝手になってしまう。神様を忘れてしまう。人間はそういうものです。

今の世界を見て下さい。今はシリアでも、人同士が殺し合っている。そこで神様を見ることは出来ないです。私たちがごたごたして、いさかい合っているとき、そこで神様を見ることは出来ません。信仰がそこでダメになってしまう。もう、信じるどころではないです。イエスはその人間の身勝手さを知っていて、それを背負って十字架につけられました。そこまで、人間を愛していたからです。そして十字架の上で死に、復活することで、私たちも決して死ぬことはなく復活する、命がずっと続くということを示して下さった。それが神様のお考え、御旨(みむね)だから、そう示された。

私たちも、もうちょっとね、神様からの恵みを見つめなくてはいけません。毎日、忙しい忙しいといって神様を忘れてしまう。何のために働いているのか。もちろん、(お給料をもらう、社会や人の役に立つ等)直接的な意味があることは知っていますし、それらは素晴らしいことですよ。神様がみなさんに、そうしてほしいという思いがあるということも知っています。

だけれども、そのことだけをするのはおかしい。そのなかで、神様から命を与えられたということを、どこまで思い出しているか。もうちょっと、一番根本的なことを、自分の人生の根本を考えたらどうでしょうか。

神様は私たちに、一番大切なことを教えて下さいました。キリストは自分の友のために命を捧げました。その通りになりました。私たちのために、自分のすべてを与えられた。そして、ずっと私たちのそばにいる、ずっと私たちのなかにいると、そう約束なさったのです。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28-22)」

このことは現在も続いています。みなさん、そう感じているでしょうか、そう思っているでしょうか。そう思っていたら、絶望したり、失望したり、明日のことについて心配するということはないはずなんです。

今日ミサを捧げながら、神様の祝別、神様の体そのものをいただいて、私たちは養われました。私たち自身についてもっと真剣に考えながら、私たちには信仰が足りないと、もっと強めて下さいと、イエス様の前で言ってもいいんじゃないかな、と思います。
(原稿は書きおこしたものであり、お説教と部分的に相違する部分がありますのでご了承下さい。)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (1/2)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (2/2)

生き返ったイエスを 恐れずに信じる

20140419-2

2014年4月 復活徹夜祭
ロワゼール神父様のお説教より

創世記のなかで、いちばん最初に作られたものは何ですか?と聞くと、わからないとお答えになる人は意外に多いです。旧約聖書の創世記では、神は初めに天地を創造され、そして次に光を創られました。ただ、わたしは、原理を生み出すものとして、光が最初の創造物だと言ってもいいと思います。

というのは、光がなければ健康もない、光がなければ悩みもないです。世の中を照らし出し、理解させるという意味で、光は世界の根源といってもいいからです。そして私たちが祝う復活祭のなかで、光とは「復活の光」であり、それは主がキリストによって、世界を、私たちを照らして下さったということなのです。

さて、今日のマタイの福音書のなかにでてくる二人の婦人について、考えてみたいと思います。婦人たちはイエスが入れられた墓を見に行ったのですが、マタイの記述では、ただ(お墓に)「行く」と簡潔に書いてあります。言うなれば、お墓参りです。当然ですが、イエスは死んだ人と考えられていたはずです。イエスは死者のなかの一人とみなされていました。

ところが、墓の中にはご遺体がなかった。イエスの体はどこに行ったのか。これは、信じられないことです。ご婦人は最初は怖くなって逃げたと思います。でもあとで考え直したのです。天の使いの言う通りなら、イエスは生き返っていると。

彼女たちの考えは混乱し、二転三転したと思います。だって、イエスや他の弟子たちといっしょに生活していて、生活が出来上がっていたところ、その先生がつかまって、殺されてしまった。イエスに従っていた人々の希望や期待はいっしょに消えてしまった。悲嘆していたら、こんどはイエスが生き返って、墓から消えていた。彼女たちの信仰は完全ではなかったかも知れませんが、他の弟子たちにはイエスが生き返ったと伝えています。生身の人間にとって、きわめて大きな変化が続いたわけです。

このご婦人たちの人生が、イエスとの出会い、別れ、そして復活の奇跡との遭遇によって、大きく動かされたように、私たちの人生も、復活イエスとの交わり、生活の中でイエスを受け入れることで大きく変わります。イエスから遠く離れてしまうのではなく、友のように、話かけ、その存在を受け入れることが大切です。イエスを受け入れる人に対して、イエスは両腕を広げて迎えて下さいます。キリストの愛を求めるひとが、がっかりすることはありません。そのために、恐れずにイエスを信じることです。

自分のすべてをイエスにおまかせしましょう。イエスはいつも、あなたともにいて下さり、あなたに平和を与えて下さいます。これは約束です。だから、恐れることはありません。今日の福音のなかで2度出てきたことですが、本当にその通りなのです。日々の生活のなかで、イエスとともに暮らし、信頼し、おまかせし、祈ること。ご復活のときだけではなく、いつもそうすることが大切です。