信徒のご質問に答えて 「苦しみの意義を考える」

十字架のマリアさまのお姿を見つめながら、
苦しみの意義を考えて

(ロワゼール神父様プリントより転載)

先日、第二回の黙想会の場で、ある方からご質問をいただきました。障害のあるその方は、毎日の辛さの中に失望を感じ、早く死んだ方がましではないかと言われました。時間の関係で、言われたことについて、断片的に答えただけですから、もうちょっと詳しく言わせてもらいたいと思います。お慰めとおちからになれば、幸いと思います。

20140412

◆苦しみと死は、神さまの恵みでも、神さまの望みでもない
主の祈りのはじめのことばにあるように、イエスは、「神」が父であることを何回も教えてくださいました。十字架の上でさえ、イエスは「父よ」と叫びます。だとすれば、どうして、父である神が自分の子どもに、恵みとして、苦しみと死を望むことがありえましょうか。

「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7.11)

さらに、神さまは母とも言える御方です。母親が自分の子どもに不幸を望むはずはありません。かえって、母親は、自分のこどもが苦しんでいる時に自分も苦しみ、その子が死んでしまえばなかなか慰められません。イエスさまも、父(母)である神さまも、私に苦しみと死を望んでいるではなく、私たちと共に苦しみ、人の死を悲しむのです(ヨハネ11.34-35:ラザロの死、参照)。

これは、私たちが信じている神の性格です。あわれみ深く、いつくしみ深い神です。この信仰は大変大事です。キリスト者の神です。もし、これと別な神を信じていたら、あなたはキリストの神でない者を信じていることになります。気をつけないと私たちは、神を権力をふるっている独裁者のような者、虐待者のような者にしてしまいます。

◆苦しみと死の元
悪とか、そこから出てくる被造物のすべての病、苦しみと死とかは、神が望んでいることではありません。というのは、今、私たちが生きている世界は神が望んだ世界ではなく、さらにこの世界は、神が創造なさったものではないとさえ言えます。

もともと、神が、創造なさった世は、微笑みの世、友愛の世、分かち合いが欠かせない世です。心から心へ、愛情から愛情へ、義理を知らない真心が交わる世でした。また、神が造ったもののすべては「恩恵」です。宇宙も、地球も、石も、植物も、動物も、そして私たち人間も、神からの恩恵です。大恩恵です。

ところが、ここが問題です。
ヨハネの福音書のはじめのところに、こう書いてあります。「光は暗やみの中で輝いている。暗やみは光を理解しなかった。」(ヨハネ1.5)。もちろん、ヨハネの言う光とは、イエス・キリストのことであり、暗やみとは、当時、イエス・キリストを認めなかった「世界」です。

むかしも今も、繰り返されている問題ではありませんか。人間は、神(光)に従って歩もうと思うより、神のようになろう、結局、暗やみを選んでいるのではありませんか。一度、父なる神を捨てている人間は闇から闇へ、苦しみと死の地獄まで作ってしまいます(ルカ15.11ー16、放蕩息子の例え、参照)。

◆人間の苦しみと死に意義はあるのか?
イエスの苦しみと十字架の上の死は、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15.13)」とイエスご自身のことばにその意義があるでしょう。ここは、もちろん「友」とは、私たち人間で、「自分」とは、キリストでしょう。これによって、神の愛の神秘に入るのです。

さきに書きましたが、子どもの苦しみを自分の苦しみにしている母のように、真の人間になった神は、すべての人間の苦しみを背負って死んで、「十字架の上で死んで」、友である人類を暗やみから光へと導いてくださいます。

それにならって。自分の苦しみと病はどう受けとめたらよいでしょうか。繰り返しますが、自分の体と心に感じる痛みは、けっして恵みではありません。しかし、苦しみによって、人は新しい「使命」を見出すことがありえます。これはキリスト者の特権と言えると思います。もちろん、だれでも、こんな使命を悟ってはいないでしょうが。

どんな「使命」でしょう。わたしは、イエスの十字架の下におられたマリアさまの姿を参考にしたいと思います。自分のいのちよりも、イエスのいのちを大事にしたマリアは、十字架の下でどんなに苦しんだでしょうか。

先ず、こころの痛みもあったでしょう。そして、マリアの心の苦しみは全身を覆ったのではないでしょうか。しかし、「剣で心を刺し貫かれたように(ルカ2.25)」、死ぬほどの聖母マリアの苦しみは、彼女に与えられた偉大な使命でした。それは、その子の救いのみわざの協力者の使命でした。

マリアさまにならって、完全な愛のうちに世の終わりまで人類のために自分をささげ続けているキリストとともに、私たちも、愛のうちに「友のために」自分自身の苦しみをささげる「使命」があると自覚することができます。そう悟っていたら痛みそのものは消えることはないでしょうが、生きるためのちからと素晴らしさをあらたに見いだすことができるのではないでしょか。

(ロワゼール神父様プリントより転載)

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