四旬節第2主日 子供とともに捧げるミサ ガブリ神父様のお説教

今日の福音朗読

 

第1朗読 創世記15・5-12、17-18

5〔その日、主はアブラム〕を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」

アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」
主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」

アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。

日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。18その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。

「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで。」

 

福音朗読 ルカ9・28b-36

〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

 

年間第5主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>

いまは受験シーズンです。受験といえば、高校大学、そして就職試験まで続くもの。親たちにとって、この時期はもっともピリピリする時期かも知れません。今日の福音の中で、イエスが弟子たちについてくるように言ったとき、仕事をあげますよ、とは言っていません。イザヤ、ペトロ、パウロやそのほかの使徒たちも仕事をもっていましたから、仕事をあげるからおいでとは言いません。その反対に、イエスがお願いしています。
会社に入るのでしたら、あなたの求める条件と、会社が提示する条件が合わなければ、あなたはその会社に就職しなければいいだけです。他に行けばいい。
でも、イエスの場合は、仕事を使途たちに頼む時、条件はありませんでした。それどころから、あなたちに頼む仕事には苦労がつきものですが、それよりも喜びが勝るものです。そういう言い方でした。 使徒たちからすれば、この先どうなるかはわからない。でも、なんとなく、この人イエスについていけば大丈夫という直観があったはず。
私達にとっても同じこと。私たちは先が見えはしないけれど、神様が、苦労、喜び、働きを支えてくださるよう祈ります。そして、信じてついていきます。

四旬節・復活祭の日程 2016年

2016年の四旬節と復活祭の日程をご案内します。

2月10日(水)19:00 灰の水曜日

2月19日(金)19:00 十字架の道行の祈り ※ 復活祭まで毎週金曜日19:00から行います。

3月6日(日)9:00/11:00 ミサと共同回心式

3月13日(日)9:00 ミサと黙想会  10:00 浦野神父様の講話

指導司祭:浦野雄二 神父(東京教区) ※ミサは9:00だけです

3月20日(日)9:00/11:00 受難の主日 ミサ

3月24日(木)19:00 聖木曜日 最後の晩餐のミサ

3月25日(金)19:00 聖金曜日 主の受難

3月26日(土)19:00 聖土曜日 復活聖なる徹夜祭

3月27日(日)10:00 復活祭・洗礼式・初聖体 ※ミサは10:00だけです。

 

 

年間第4主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>

第2朗読ではパウロのコリントへの手紙を読みました。 ここでは愛について最高の文学、最高のおしえがあります。 愛の讃歌として知られている個所であり、結婚式などでも 紹介されることがあります。

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パウロのコリントへの手紙(12・31-13・13)

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

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神さまについてみなそれぞれイメージがあります。慣れ親しんだ神さまのイメージ。 でも何か出来事があると、それががらっと変わってしまう。 神さまはいつも驚きで、私たちに気づきを与えて下さる。

イエスが故郷の村を訪れたとき、皆は、数々の奇跡をおこし、病の人をいやしたイエスを 思い描いたけれど、イエスに会いにいったとき、そこにいたのは「ヨセフの子」のイエスでした。 イメージと違う姿に、あるものは落胆し、あるものはイエスを崖から落とそうとさえした。

洗礼を受けるとき、勉強は十分ですか、どんな勉強をしましたか?と気にする人がいますが、 そういう人こそ、勉強は大丈夫ですかと問いたいです。
洗礼は勉強の結果ではなく、キリスト者の生活は洗礼のときから始まるのです。

イエスのイメージをかたくなに守るのではなく、神にゆだね、聖霊をたのみ、イエスの姿がもっと良くみえるように、感謝し、祈りを続けたいと思います。