2014年 ご復活祭

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2014年4月20日、カトリック赤堤教会で復活の主日を祝うミサがありました。ガブリ神父様、ロワゼール神父様、ラべ神父様による司式のもと、多くの方が、教会に集い、主の復活を祝いました。

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イエスの復活を象徴するイースターエッグは、新しく赤堤教会の主任司祭になられるガブリ神父様が祝別。

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今年の復活祭を最後に、6年半にわたり赤堤教会の主任司祭をつとめていただいたジャン・シャール・ロワゼール神父様は、仙台教区へ移ります。その神父様から、以下のようなメッセージをいただきました。

「私は着任後、ボーイスカウト、ガールスカウトもひとつになりたい、ひとつの兄弟、姉妹だと考えていました。みんな教会の家族です。……キリストの愛、神の国とは、みんなが一つの国 ひとつの家族になり、平和のなかに生きている国ということです。これからも、そのモデルを作っていって下さい」

●ロワゼール神父様のご挨拶

神父様、6年間ありがとうございました!



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■イースター・パーティー
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ミサ後のパーティーはマリア幼稚園のホールで行われました。ロワゼール神父様が今月から仙台教区に異動になるため、信徒、ボーイスカウト、ガールスカウト、マリア幼稚園、他教会の方も一緒に参加し、神父様との別れを惜しみました。

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信徒会から神父様へのプレゼントはタブレット型のパソコン「アイパッド」を贈りました。80歳にしては驚異的にパソコンに強いロワゼール神父様。アイパッドは、すらすらと使い方をマスターされたそうです。

会食に続き、神父様の歌の披露があり、最後は会場の全員で「花」を合唱をして終わりの時間となりました。お手伝いしてくれたボーイスカウトとガールスカウトのみんな有難う!パーティーのご準備をいただいた信徒の皆様お疲れ様でした。

そして、言葉では言い尽くせないほどの感謝を、ロワゼール神父様と、神様に…。本当にありがとうございました。神父様、いつまでもお元気で!

最後に、パソコンのことで困ったら、いつでもご相談くださいね!(総務ITチームより)


【思い出のワンシーン】

・ロワゼール神父様が赤堤教会に初登場した日
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(2009年9月撮影)

2014年復活の主日 ロワゼール神父様のお説教

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2014年4月20日 復活の主日
ご復活祭のミサ ロワゼール神父様のお説教
(動画は末尾に掲載しています)

今日は皆さん、卵をもらって帰りますよね。でも、どうして復活祭に卵があるのでしょうか。わかりますか。それは新しい命のシンボル、しるしです。この卵はゆでていますから、もう食べるしかないですけれど、親鳥が卵を産んだ後、温め続けていたらどうなりますか。ひなが産まれますね。ひなは自分のくちばしで卵の殻をツンツンとつついて割ろうとします。

みなさんは卵から生まれたものではありませんが、ある意味で、母の胎内から生まれたという点は共通しています。たまごから命が産まれるのは当たり前、自然ですと言われればそれまでですが、しかし世の中に命が生まれるというのは、物が倒れたり、転がったりするのとはわけが違います。どこかで「特別な何か」が働いているから、そうなるのです。

この鉢植えに生えている、ひょろ長い木がありますが、みなさん何の木だかわかりますか。秋になると黄色い葉が、落ち葉になる、、、、そう、いちょうの木なんです。教会の事務所の裏に、自然に生えてきたので、私はびっくりしました。きっと鳥が種を運んできたのかも知れません。

でも、この木の最初はとても小さな種でした。この先、いちょうは大きくなると数十メートルになります。一粒の小さな種から、あの大木が育つなんて、本当に不思議です。もちろん、わたしたちは日ごろから見慣れているので、いまは驚きませんが、もしこれを初めて知ったとしたら、あの桜や樫の木が、こんな小さな体から始まったという事実を最初に知ったならば、それは大きな驚きになると思います。奇跡です。

同じように、みなさん一人一人が生まれたことは奇跡なんです。どうして、小さな命が、この「鼻」や「目」に育っていくのか、不思議だと思いませんか。医学的にも不思議とされているのです。細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中教授という人が先日、NHKの番組に出演していましたが、はっきり言っていました。こんなことが出来るのは神様だけ。人間には出来ないこととおっしゃっていました。

科学者もそう思っているのです。科学者であれば普通は言わないことですけれど、それを言うというのは、この山中さんには相当な勇気があったと思います。たくさん実験して、たくさん研究して、結論は人間に出来ることではないと考えたわけです。

私たちは何のために生まれたのか。死ぬためか?死ぬために生まれたのだったら、何も待たずに死ねばいいという考えも出てきます。そう考える人は自殺するのだと思いますけれど。もちろん、皆さんは絶対にそういうことはしないで下さいね。だけれども、もうどうにもならない困難にぶつかったときに、自分の心がまいってしまったとき。人は何のために生きて行くのか、ということを考えざるを得ないのです。

私たちは、とにかく、または何となく、「生きたい」と思います。ごく自然に「明日も生きたい」と思う存在です。今日生きたけど、もうこれで終わり、とは考えたくありませんね。とくに若い人はそうですよ。みんなそうでしょ。明日死にたいなんて思う?誰も思いませんよ。

でもこれは人間だけなんですよ。犬に聞いてみたら、どう答えるでしょうか。おそらく明日も生きたいなんていう考えは、犬にはないです。人間だけにある」「考え」なんです。だから、私たちは、人間は、ただこの世で生きるというだけでは不十分なのです。誰でも考えれば分かる事です。

じゃあ、どうするか。そこで、今日のお祝いのことをちょっとだけ考えましょう。今日の福音、聖書の言葉はあまり明るいところではないですね。そのなかで、マグダラのマリアのことを考えましょう。彼女はイエスを愛していた、深く尊敬していました。だけれど、その愛情よりももっと深いものがあった。それは自分がイエスによって、本当に救われたからです。いやされたからです。

だからひどいやりかたで、イエスが十字架の上で殺されたのを見たときには、もう、どうしようもない気持ちになりますよ。墓に行って、イエスに祈るとき。どういう心境だったでしょうか。それは、真っ暗です。最悪です。自分の心が暗闇のなかに沈んでしまった、暗闇の中で、彼女は生きていたんです。墓へ行って見ると、イエス様がいない。どういうことでしょうか。

死んだような気持になったことがあるかも知れません。それは神様のせいじゃない。それは自分だけの思いです。マグダラのマリアは、ベタニアのマリアの後に、イエスに出会い、そして信じました。しかしイエスについては、自分の理想というか、勝手な思い込みが先に立ち、実際はよく知らなかった。イエスの弟子は、イエスが不思議なことをして、信じますが、マリアはそういう評判を聞いていた。そして、イエスに出会い、信じたから、また奇跡が起きた。(「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカによる福音書 08-02))

私たちについて言うと、私たちは、はっきりしたものだけを信じているのではありません。キリストの、神様の力を思い出して、信じる。私たちを創り出し、私たちに命を与えた方だから、私たちから命を取るという方ではないです。いつも、私たちにその命を与え続けて下さる方です。当たり前なのです。でも、当たり前だからこそ、人間はこのとても大切なことを忘れ、身勝手になってしまう。神様を忘れてしまう。人間はそういうものです。

今の世界を見て下さい。今はシリアでも、人同士が殺し合っている。そこで神様を見ることは出来ないです。私たちがごたごたして、いさかい合っているとき、そこで神様を見ることは出来ません。信仰がそこでダメになってしまう。もう、信じるどころではないです。イエスはその人間の身勝手さを知っていて、それを背負って十字架につけられました。そこまで、人間を愛していたからです。そして十字架の上で死に、復活することで、私たちも決して死ぬことはなく復活する、命がずっと続くということを示して下さった。それが神様のお考え、御旨(みむね)だから、そう示された。

私たちも、もうちょっとね、神様からの恵みを見つめなくてはいけません。毎日、忙しい忙しいといって神様を忘れてしまう。何のために働いているのか。もちろん、(お給料をもらう、社会や人の役に立つ等)直接的な意味があることは知っていますし、それらは素晴らしいことですよ。神様がみなさんに、そうしてほしいという思いがあるということも知っています。

だけれども、そのことだけをするのはおかしい。そのなかで、神様から命を与えられたということを、どこまで思い出しているか。もうちょっと、一番根本的なことを、自分の人生の根本を考えたらどうでしょうか。

神様は私たちに、一番大切なことを教えて下さいました。キリストは自分の友のために命を捧げました。その通りになりました。私たちのために、自分のすべてを与えられた。そして、ずっと私たちのそばにいる、ずっと私たちのなかにいると、そう約束なさったのです。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28-22)」

このことは現在も続いています。みなさん、そう感じているでしょうか、そう思っているでしょうか。そう思っていたら、絶望したり、失望したり、明日のことについて心配するということはないはずなんです。

今日ミサを捧げながら、神様の祝別、神様の体そのものをいただいて、私たちは養われました。私たち自身についてもっと真剣に考えながら、私たちには信仰が足りないと、もっと強めて下さいと、イエス様の前で言ってもいいんじゃないかな、と思います。
(原稿は書きおこしたものであり、お説教と部分的に相違する部分がありますのでご了承下さい。)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (1/2)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (2/2)

3名の受洗者の皆様 おめでとうございます!

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4月19日(土)の復活徹夜祭において、3名の方が洗礼を受けられました。ミサ後には、受洗者の方々の紹介が簡単にあり、信徒会からささやかな記念品が贈呈されました。

心よりお祝いを申し上げます。おめでとうございます。
ともにイエス様の弟子として、信仰の道を力強く歩いていきましょう!

信徒のご質問に答えて 「苦しみの意義を考える」

十字架のマリアさまのお姿を見つめながら、
苦しみの意義を考えて

(ロワゼール神父様プリントより転載)

先日、第二回の黙想会の場で、ある方からご質問をいただきました。障害のあるその方は、毎日の辛さの中に失望を感じ、早く死んだ方がましではないかと言われました。時間の関係で、言われたことについて、断片的に答えただけですから、もうちょっと詳しく言わせてもらいたいと思います。お慰めとおちからになれば、幸いと思います。

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◆苦しみと死は、神さまの恵みでも、神さまの望みでもない
主の祈りのはじめのことばにあるように、イエスは、「神」が父であることを何回も教えてくださいました。十字架の上でさえ、イエスは「父よ」と叫びます。だとすれば、どうして、父である神が自分の子どもに、恵みとして、苦しみと死を望むことがありえましょうか。

「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7.11)

さらに、神さまは母とも言える御方です。母親が自分の子どもに不幸を望むはずはありません。かえって、母親は、自分のこどもが苦しんでいる時に自分も苦しみ、その子が死んでしまえばなかなか慰められません。イエスさまも、父(母)である神さまも、私に苦しみと死を望んでいるではなく、私たちと共に苦しみ、人の死を悲しむのです(ヨハネ11.34-35:ラザロの死、参照)。

これは、私たちが信じている神の性格です。あわれみ深く、いつくしみ深い神です。この信仰は大変大事です。キリスト者の神です。もし、これと別な神を信じていたら、あなたはキリストの神でない者を信じていることになります。気をつけないと私たちは、神を権力をふるっている独裁者のような者、虐待者のような者にしてしまいます。

◆苦しみと死の元
悪とか、そこから出てくる被造物のすべての病、苦しみと死とかは、神が望んでいることではありません。というのは、今、私たちが生きている世界は神が望んだ世界ではなく、さらにこの世界は、神が創造なさったものではないとさえ言えます。

もともと、神が、創造なさった世は、微笑みの世、友愛の世、分かち合いが欠かせない世です。心から心へ、愛情から愛情へ、義理を知らない真心が交わる世でした。また、神が造ったもののすべては「恩恵」です。宇宙も、地球も、石も、植物も、動物も、そして私たち人間も、神からの恩恵です。大恩恵です。

ところが、ここが問題です。
ヨハネの福音書のはじめのところに、こう書いてあります。「光は暗やみの中で輝いている。暗やみは光を理解しなかった。」(ヨハネ1.5)。もちろん、ヨハネの言う光とは、イエス・キリストのことであり、暗やみとは、当時、イエス・キリストを認めなかった「世界」です。

むかしも今も、繰り返されている問題ではありませんか。人間は、神(光)に従って歩もうと思うより、神のようになろう、結局、暗やみを選んでいるのではありませんか。一度、父なる神を捨てている人間は闇から闇へ、苦しみと死の地獄まで作ってしまいます(ルカ15.11ー16、放蕩息子の例え、参照)。

◆人間の苦しみと死に意義はあるのか?
イエスの苦しみと十字架の上の死は、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15.13)」とイエスご自身のことばにその意義があるでしょう。ここは、もちろん「友」とは、私たち人間で、「自分」とは、キリストでしょう。これによって、神の愛の神秘に入るのです。

さきに書きましたが、子どもの苦しみを自分の苦しみにしている母のように、真の人間になった神は、すべての人間の苦しみを背負って死んで、「十字架の上で死んで」、友である人類を暗やみから光へと導いてくださいます。

それにならって。自分の苦しみと病はどう受けとめたらよいでしょうか。繰り返しますが、自分の体と心に感じる痛みは、けっして恵みではありません。しかし、苦しみによって、人は新しい「使命」を見出すことがありえます。これはキリスト者の特権と言えると思います。もちろん、だれでも、こんな使命を悟ってはいないでしょうが。

どんな「使命」でしょう。わたしは、イエスの十字架の下におられたマリアさまの姿を参考にしたいと思います。自分のいのちよりも、イエスのいのちを大事にしたマリアは、十字架の下でどんなに苦しんだでしょうか。

先ず、こころの痛みもあったでしょう。そして、マリアの心の苦しみは全身を覆ったのではないでしょうか。しかし、「剣で心を刺し貫かれたように(ルカ2.25)」、死ぬほどの聖母マリアの苦しみは、彼女に与えられた偉大な使命でした。それは、その子の救いのみわざの協力者の使命でした。

マリアさまにならって、完全な愛のうちに世の終わりまで人類のために自分をささげ続けているキリストとともに、私たちも、愛のうちに「友のために」自分自身の苦しみをささげる「使命」があると自覚することができます。そう悟っていたら痛みそのものは消えることはないでしょうが、生きるためのちからと素晴らしさをあらたに見いだすことができるのではないでしょか。

(ロワゼール神父様プリントより転載)