2014年復活の主日 ロワゼール神父様のお説教

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2014年4月20日 復活の主日
ご復活祭のミサ ロワゼール神父様のお説教
(動画は末尾に掲載しています)

今日は皆さん、卵をもらって帰りますよね。でも、どうして復活祭に卵があるのでしょうか。わかりますか。それは新しい命のシンボル、しるしです。この卵はゆでていますから、もう食べるしかないですけれど、親鳥が卵を産んだ後、温め続けていたらどうなりますか。ひなが産まれますね。ひなは自分のくちばしで卵の殻をツンツンとつついて割ろうとします。

みなさんは卵から生まれたものではありませんが、ある意味で、母の胎内から生まれたという点は共通しています。たまごから命が産まれるのは当たり前、自然ですと言われればそれまでですが、しかし世の中に命が生まれるというのは、物が倒れたり、転がったりするのとはわけが違います。どこかで「特別な何か」が働いているから、そうなるのです。

この鉢植えに生えている、ひょろ長い木がありますが、みなさん何の木だかわかりますか。秋になると黄色い葉が、落ち葉になる、、、、そう、いちょうの木なんです。教会の事務所の裏に、自然に生えてきたので、私はびっくりしました。きっと鳥が種を運んできたのかも知れません。

でも、この木の最初はとても小さな種でした。この先、いちょうは大きくなると数十メートルになります。一粒の小さな種から、あの大木が育つなんて、本当に不思議です。もちろん、わたしたちは日ごろから見慣れているので、いまは驚きませんが、もしこれを初めて知ったとしたら、あの桜や樫の木が、こんな小さな体から始まったという事実を最初に知ったならば、それは大きな驚きになると思います。奇跡です。

同じように、みなさん一人一人が生まれたことは奇跡なんです。どうして、小さな命が、この「鼻」や「目」に育っていくのか、不思議だと思いませんか。医学的にも不思議とされているのです。細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中教授という人が先日、NHKの番組に出演していましたが、はっきり言っていました。こんなことが出来るのは神様だけ。人間には出来ないこととおっしゃっていました。

科学者もそう思っているのです。科学者であれば普通は言わないことですけれど、それを言うというのは、この山中さんには相当な勇気があったと思います。たくさん実験して、たくさん研究して、結論は人間に出来ることではないと考えたわけです。

私たちは何のために生まれたのか。死ぬためか?死ぬために生まれたのだったら、何も待たずに死ねばいいという考えも出てきます。そう考える人は自殺するのだと思いますけれど。もちろん、皆さんは絶対にそういうことはしないで下さいね。だけれども、もうどうにもならない困難にぶつかったときに、自分の心がまいってしまったとき。人は何のために生きて行くのか、ということを考えざるを得ないのです。

私たちは、とにかく、または何となく、「生きたい」と思います。ごく自然に「明日も生きたい」と思う存在です。今日生きたけど、もうこれで終わり、とは考えたくありませんね。とくに若い人はそうですよ。みんなそうでしょ。明日死にたいなんて思う?誰も思いませんよ。

でもこれは人間だけなんですよ。犬に聞いてみたら、どう答えるでしょうか。おそらく明日も生きたいなんていう考えは、犬にはないです。人間だけにある」「考え」なんです。だから、私たちは、人間は、ただこの世で生きるというだけでは不十分なのです。誰でも考えれば分かる事です。

じゃあ、どうするか。そこで、今日のお祝いのことをちょっとだけ考えましょう。今日の福音、聖書の言葉はあまり明るいところではないですね。そのなかで、マグダラのマリアのことを考えましょう。彼女はイエスを愛していた、深く尊敬していました。だけれど、その愛情よりももっと深いものがあった。それは自分がイエスによって、本当に救われたからです。いやされたからです。

だからひどいやりかたで、イエスが十字架の上で殺されたのを見たときには、もう、どうしようもない気持ちになりますよ。墓に行って、イエスに祈るとき。どういう心境だったでしょうか。それは、真っ暗です。最悪です。自分の心が暗闇のなかに沈んでしまった、暗闇の中で、彼女は生きていたんです。墓へ行って見ると、イエス様がいない。どういうことでしょうか。

死んだような気持になったことがあるかも知れません。それは神様のせいじゃない。それは自分だけの思いです。マグダラのマリアは、ベタニアのマリアの後に、イエスに出会い、そして信じました。しかしイエスについては、自分の理想というか、勝手な思い込みが先に立ち、実際はよく知らなかった。イエスの弟子は、イエスが不思議なことをして、信じますが、マリアはそういう評判を聞いていた。そして、イエスに出会い、信じたから、また奇跡が起きた。(「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカによる福音書 08-02))

私たちについて言うと、私たちは、はっきりしたものだけを信じているのではありません。キリストの、神様の力を思い出して、信じる。私たちを創り出し、私たちに命を与えた方だから、私たちから命を取るという方ではないです。いつも、私たちにその命を与え続けて下さる方です。当たり前なのです。でも、当たり前だからこそ、人間はこのとても大切なことを忘れ、身勝手になってしまう。神様を忘れてしまう。人間はそういうものです。

今の世界を見て下さい。今はシリアでも、人同士が殺し合っている。そこで神様を見ることは出来ないです。私たちがごたごたして、いさかい合っているとき、そこで神様を見ることは出来ません。信仰がそこでダメになってしまう。もう、信じるどころではないです。イエスはその人間の身勝手さを知っていて、それを背負って十字架につけられました。そこまで、人間を愛していたからです。そして十字架の上で死に、復活することで、私たちも決して死ぬことはなく復活する、命がずっと続くということを示して下さった。それが神様のお考え、御旨(みむね)だから、そう示された。

私たちも、もうちょっとね、神様からの恵みを見つめなくてはいけません。毎日、忙しい忙しいといって神様を忘れてしまう。何のために働いているのか。もちろん、(お給料をもらう、社会や人の役に立つ等)直接的な意味があることは知っていますし、それらは素晴らしいことですよ。神様がみなさんに、そうしてほしいという思いがあるということも知っています。

だけれども、そのことだけをするのはおかしい。そのなかで、神様から命を与えられたということを、どこまで思い出しているか。もうちょっと、一番根本的なことを、自分の人生の根本を考えたらどうでしょうか。

神様は私たちに、一番大切なことを教えて下さいました。キリストは自分の友のために命を捧げました。その通りになりました。私たちのために、自分のすべてを与えられた。そして、ずっと私たちのそばにいる、ずっと私たちのなかにいると、そう約束なさったのです。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28-22)」

このことは現在も続いています。みなさん、そう感じているでしょうか、そう思っているでしょうか。そう思っていたら、絶望したり、失望したり、明日のことについて心配するということはないはずなんです。

今日ミサを捧げながら、神様の祝別、神様の体そのものをいただいて、私たちは養われました。私たち自身についてもっと真剣に考えながら、私たちには信仰が足りないと、もっと強めて下さいと、イエス様の前で言ってもいいんじゃないかな、と思います。
(原稿は書きおこしたものであり、お説教と部分的に相違する部分がありますのでご了承下さい。)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (1/2)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (2/2)

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