ガブリ神父様のお説教-私たちとともにいる神

カトリック赤堤教会ではこの春、主任司祭が交代します。あたらしく主任司祭になってくださるのがジャン・ガブリ神父様です。当教会に来られる前はカトリック弘前で主任司祭をしておられました。

今回の動画はガブリ神父様の赤堤教会での2回目となったお説教です。
話の中心は、イエスの最後です。イエスが十字架にはりつけにされ、息をひきとる前に叫んだ言葉。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この言葉は、これだけの意味ではない、ということ。

そして、イエスがわたしたちを愛し、わたしたちの罪のために自分を犠牲にされるのですが、、最後の最後まで、ゆるぎない主への信頼に貫かれていたという事実。イエスは時代劇でよく見る幕の影に隠れた貴人などではなく、幕の手前で、わたしたちとともにいて下さる神なのだということについても強調されました。

黙想会第二回「永遠に渇くことのない水を求める」

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
(ヨハネによる福音書4章7-15)

3月23日(日)、カトリック赤堤教会で黙想会の第二回が行われました。ロワゼール神父様による指導のもと、ヨハネ福音書4章をとりあげ、1)永遠に渇くことのない泉からの水に預かることや、祈りと秘跡の関係、2)霊をもって拝むこと、キリストを愛している祈り3)サマリアの女の宣教の仕方、などについてお話を聞かせていただきました。

◆ダイジェスト

先週に続いてヨハネによる福音書を読みます。先週の20章では場面は夜でしたが、4章では昼です。内容は水と関連しています。
イエスとサマリア人の女との出会いは、いろいろな見方ができます。男女の出会い、神と人類の出会い、違う文化どうしの出会い、違う宗教どうしの出会いなど。しかし、ヨハネの福音書におけるイエスとサマリア人の女との出会いは、何よりも、愛情(水)を求める人間と、それを与える神との出会いでした。

◇水を与える人とは?
出エジプト記の17章でも、人々から水を求められたモーセが、神のことばどおりに岩を打つと、水が出たという記述があります。このときの「岩」は、新約聖書ではキリストになります。

◇イエスも水を求めている
イエスも何かを求めていたと思います。サマリア人との会話でしょうか。旅のつかれをいやすこと、あるいは乾いた喉を潤すことでしょうか。イエスは愛の渇きをいやしてもらいたかったのではありませんか。
十字架につけられたイエスの叫びに「渇き」を感じるとき、それは世界を見たイエスが、人々からの愛を強く求めていたからではないでしょうか。人間にとって大切な水。しかし愛もそれに等しく大切。

◇イエスの与える水
「永遠に渇くことがない」水とはどんなものでしょうか。神(聖霊)が人に与えるいのちと関係しています。生きるためにどうしても水が必要であるように、霊的に、また精神的に生きるための「水」が必要。キリストの愛の泉から湧き出る水が必要。その水があふれる泉こそ、毎日のイエスとの出会いである祈りと御言葉です。そして、私たちは、とくにミサとご聖体に預かることによって、その機会をいただくことが出来るのです。