三位一体の主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>

みなさんは、わたしたちの神について、他の人から聞かれたらどう説明しますか。

神父様やシスターから聞いたことを伝えることはできますが、
自分自身の体験で、自分の神はどういう神か。これは、なかなか言葉になりません。
でも、そういうときは神様が助けてくれます。

今日の朗読の中に、素晴らしい神様の姿があります。

あわれみ深く、恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者。(出エジプト記34-4)

ときどき人から次のように言われます。
わたしはだめです、すごく悪いことをした、許されません。

そのとき思い出しましょう。

あわれみ深い神様
恵みに富む神様
忍耐強い神様
慈しみ深い神様

わたしたちより、忍耐強いです。
人間などより、はるかにあわれみ深い方です。

ただ聖書の言葉としてではなく、信仰生活の中で体験したさまざまなことを、
自分の体験として他の方にお話しすれば、パウロの言うように
私たちの生き方が変わっていくと思います。

よろこびをもって、平和をもって、生きる者になります。

神様は、愛と平和の神です。
神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
これ以上の愛の物語はありません。

三位一体(さんみいったい)というのは、愛の物語といえばいいのです。
わたしたちと神様、イエス・キリストのつながりは愛のつながりです。

神秘というのは、「理解できないもの」とわたしは子供のころに教わりました。
しかし、「理解できない」というより、深めていくものです。

わたしの父は牧場の仕事を朝から晩までしていました。
大勢の人が働いていましたが、感謝の気持ちを表さないひとでした。
母はそんな父に、ちゃんと感謝してくださいとよく言っていました。

母が先立ち、10年は父は独り暮らし。
父は試行錯誤して、母の味を真似て料理を作り始めました。
母の味をつくり、以前のように家族になりたいと思ったのでしょう。
それで、だんだんと父は変わっていったのです。
晩年、施設に入ってからは、ほとんど感謝の言葉ばかりでした。
私たちにとっては、まったく新しい父になっていました。

同じように、神秘もひとりひとりが、少しずつ深めるもの。
神様も、深めていくものです。

わたしたちがついていくイエスが、どういうお方か
少しずつ深めていきましょう。

 

聖霊降臨の主日 ガブリ神父様のお説教

ガブリ神父様が約1か月の休暇を終えて、赤堤教会に戻っていらっしゃいました。カムバック後、第一回のミサとなる本日は、子どもとともに捧げるミサ。そして、聖霊降臨の主日でもあります。このおめでたい日に、神父様がご用意されたのは、なんと「アメっこ」(飴)でした。カナダのお土産として、メープルシロップ入りのおいしいアメを、ミサでお配りになりました。

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「ミサでご聖体をいただくのは、初聖体が済んだ人だけです。それ以外の人は何ももらえない。ちょっとさびしいなとずっと思っていましたから、今日は特別ですよ。あと、大人の人にもありますから安心してくださいね(笑)」(ガブリ神父様)

思いがけないプレゼントに喜びつつ、カナダから帰国された神父様とともにミサで神に感謝をささげました。そして、聖霊の働きがみんなのうえにあるように祈りました。

 

 

 

ローマ教皇 中東歴訪で平和を呼びかけ~ごミサで考えたこと

ローマ教皇フランシスコが5月24日から26日まで、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを訪問されました。随行団には、教皇様がブエノスアイレス大司教時代から親しい、アルゼンチンのユダヤ教ラビ・アブラハム・スコルカ氏と同国の諸宗教対話研究所の事務局長であるイスラム教指導者オマル・アッブード氏の2人が参加。最初から、エキュメニカルな姿勢を強く打ち出しました。

日程は以下の通りです。
24日 ヨルダン アブドゥッラー2世国王らと会見。

25日 パレスチナのベツレヘムでマフムード・アッバス大統領を訪問。バチカン大使館でコンスタンティノポリス総主教バルトロメオス1世と会見。

26日 総主教バルトロメオス1世と聖墳墓教会で共に祈り。 エルサレムのイスラム指導者グランド・ムフティと合流、岩のドーム訪問。ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」で祈り。

超過密スケジュールで各宗教、各国の代表者と会見されたわけですが、教皇様のこの精力的で、分け隔てのない、各派の代表者への働きかけは何を意味するのでしょうか。

もちろん答えはひとつではありませんが、本日のごミサで聞いたラべ神父様のお説教がヒントになると感じました。

苦しんで知る人、困っている人のために何かをするとき、その人には神が送られた聖霊がやどり、その人の手と足は神のために使われるということです。

具体的には、中東で長引くパレスチナとイスラエルの対立問題の解決のために、ご尽力されているのだと思います。もちろん、この問題は数十年にわたり解決が出来なかったことであります。しかし、あえて解決の糸口をさがしておられるのでしょう。

普通に考えると出来ないことでも、神の御心に沿うことをするならば、神は私たちに勇気と力を与えて下さいます。そして、それを私たちに伝えるための聖霊を送ってくださいます。

教皇様のお示しになったことを、聖霊降臨の祝日(6月8日)に続くものとして、受け止めたいと思います。ラべ神父様のお説教にもありましたように、教皇様の御働きが、実際に苦しむ人たちの生活の改善につながるように祈りましょう。父と子と聖霊によってアーメン。

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5月25日は大掃除でした

5月25日(日)は赤堤教会の大掃除を行いました。多くの皆様にお手伝いをいただき、聖堂、泣き部屋、香部屋、地下会議室などのガラス拭き、テーブル吹き、掃除機がけ等を行いました。

時間は10時過ぎから開始、11時のミサ時間中は音を立てないように一部ペースダウン。その後、12時過ぎまで続きました。

教会の掃除は毎週行われています。ボーイスカウト、ガールスカウト、信徒の各担当地区が週替わりで行っています。しかしながら、ガラスや床などは、大掃除のようにまとまった時間をとらないと出来ないものです。今年も皆様のご協力により「いつも気持ちのいい教会」を保つことが出来ました。

今回参加された皆様、お疲れ様でした。今回できなかった皆様、ぜひ次はいっしょにお掃除しましょう。お気軽にご参加くださいね。(男性の方、不足しています!)

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地下会議室のガラス掃除の風景

 

Firefox で教会HPを見られます

赤堤教会のホームページはFirefoxで見られますか?というご質問をいただきました。最近ではインターネットエクスプローラー(IE)の脆弱性に対して、いろいろな議論がありましたので、IE以外のインターネット閲覧ソフトをご利用の方も増えているようです。

管理人のPCにFirefoxをインストールして、教会のホームページを見てみましたが、問題ありませんでした。テキストのほか、画像や動画もFirefoxでスムーズに見られました。

↓こんな感じです。

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図:Firefoxで閲覧した赤堤教会ホームページ

(実際はもっと大きいです)

 

Firefoxの説明: 正式名称はMozilla Firefox(モジラ ファイアフォックス)。パソコンでインターネットを使うときの閲覧ソフトの一種です。

復活節第2主日 ガブリ神父様のお説教

<ダイジェスト>
故人を偲ぶため家族、知人が集まる。弟子たちも同じように集まった。
イエスが十字架の苦しみを受けて亡くなったことは、受け入れ難いこと。
しかし、復活という素晴らしい知らせを、弟子たちは伝え始めた。
弟子たちの集まりが教会になり、現代の私たちはその続きである。

私たちはイエスのことを話し、思い出しながら、体をいただきながら、
教会とはどんなものかを学んでいる。まだ完全ではない。

トーマスはイエスの生前は神様だと言っていたが、十字架の死を見てからは
もう信じられなかった。しかし、弟子たちといっしょに話し、イエスのことを話し、
復活したイエスを見たという仲間の弟子の証言を聞き、トーマスも信じるようになった。
私たちにはペトロのように熱心なときも、トーマスのように怠けてしまうこともある。
しかし、弟子たちと同じように集まり、イエスのことについて話し、
体をいただきながら、教会を少しずつ作っている。

イエスと同時代の「初代教会」には素晴らしいイメージを抱く。
みんな仲良く、自分のものを分け合い、いっしょに祈り、イエスについて話す。
自分もその中に入りたかった、と思う。
しかし、もう少しみると、いろいろ課題はあった。
イエスの教えをどう日常生活に活かせるかを一生懸命に考えていた。
この悩みは、初代教会の信者も私たちも同じこと。

復活したイエスを、私たちに命を与えて下さったイエスを、
喜びと真心をもって、どうあらわせばいいのか。
弟子たちと同じ喜びと真心を持つことができるように、
また証しすることが出来るように、
神様の恵みと力を願い求めましょう。

教皇ヨハネ23世・教皇ヨハネ・パウロ2世列聖式

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教皇ヨハネ二十三世・教皇ヨハネ・パウロ二世列聖式

復活節第二主日(神のいつくしみの主日)の2014年4月27日(日)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコは教皇ヨハネ二十三世(写真右)および教皇ヨハネ・パウロ二世(写真左)列聖式ミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。列聖式には150名の枢機卿、700名の司教、名誉教皇ベネディクト十六世が参加しました。

*教皇ヨハネ二十三世:アンジェロ・ロンカリ 1881年11月25日-1963年6月3日、教皇在位1958年10月28日-1963年6月3日
*教皇ヨハネ・パウロ二世:カロル・ヴォイティワ 1920年5月18日-2005年4月2日、教皇在位1978年10月16日-2005年4月2日

教皇フランシスコは、2013年7月5日、福者ヨハネ・パウロ二世が列聖される条件となる、その執り成しによる2つ目の奇跡を認める教令を認可し、また、福者ヨハネ二十三世の列聖も承認しました。ヨハネ二十三世は2000年9月3日、教皇ヨハネ・パウロ二世により列福され、ヨハネ・パウロ二世は2011年5月1日、教皇ベネディクト十六世により列福されています。

説教(カトリック中央協議会サイト)

教皇ヨハネ二十三世・教皇ヨハネ・パウロ二世列聖ミサの様子 3時間38分(バチカン)

教皇フランシスコによる列聖の宣言 1分25秒(BBCニュース)

<教皇略歴>

教皇ヨハネ二十三世

教皇ヨハネ・パウロ二世

2014年 ご復活祭

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2014年4月20日、カトリック赤堤教会で復活の主日を祝うミサがありました。ガブリ神父様、ロワゼール神父様、ラべ神父様による司式のもと、多くの方が、教会に集い、主の復活を祝いました。

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イエスの復活を象徴するイースターエッグは、新しく赤堤教会の主任司祭になられるガブリ神父様が祝別。

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今年の復活祭を最後に、6年半にわたり赤堤教会の主任司祭をつとめていただいたジャン・シャール・ロワゼール神父様は、仙台教区へ移ります。その神父様から、以下のようなメッセージをいただきました。

「私は着任後、ボーイスカウト、ガールスカウトもひとつになりたい、ひとつの兄弟、姉妹だと考えていました。みんな教会の家族です。……キリストの愛、神の国とは、みんなが一つの国 ひとつの家族になり、平和のなかに生きている国ということです。これからも、そのモデルを作っていって下さい」

●ロワゼール神父様のご挨拶

神父様、6年間ありがとうございました!



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■イースター・パーティー
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ミサ後のパーティーはマリア幼稚園のホールで行われました。ロワゼール神父様が今月から仙台教区に異動になるため、信徒、ボーイスカウト、ガールスカウト、マリア幼稚園、他教会の方も一緒に参加し、神父様との別れを惜しみました。

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信徒会から神父様へのプレゼントはタブレット型のパソコン「アイパッド」を贈りました。80歳にしては驚異的にパソコンに強いロワゼール神父様。アイパッドは、すらすらと使い方をマスターされたそうです。

会食に続き、神父様の歌の披露があり、最後は会場の全員で「花」を合唱をして終わりの時間となりました。お手伝いしてくれたボーイスカウトとガールスカウトのみんな有難う!パーティーのご準備をいただいた信徒の皆様お疲れ様でした。

そして、言葉では言い尽くせないほどの感謝を、ロワゼール神父様と、神様に…。本当にありがとうございました。神父様、いつまでもお元気で!

最後に、パソコンのことで困ったら、いつでもご相談くださいね!(総務ITチームより)


【思い出のワンシーン】

・ロワゼール神父様が赤堤教会に初登場した日
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(2009年9月撮影)

2014年復活の主日 ロワゼール神父様のお説教

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2014年4月20日 復活の主日
ご復活祭のミサ ロワゼール神父様のお説教
(動画は末尾に掲載しています)

今日は皆さん、卵をもらって帰りますよね。でも、どうして復活祭に卵があるのでしょうか。わかりますか。それは新しい命のシンボル、しるしです。この卵はゆでていますから、もう食べるしかないですけれど、親鳥が卵を産んだ後、温め続けていたらどうなりますか。ひなが産まれますね。ひなは自分のくちばしで卵の殻をツンツンとつついて割ろうとします。

みなさんは卵から生まれたものではありませんが、ある意味で、母の胎内から生まれたという点は共通しています。たまごから命が産まれるのは当たり前、自然ですと言われればそれまでですが、しかし世の中に命が生まれるというのは、物が倒れたり、転がったりするのとはわけが違います。どこかで「特別な何か」が働いているから、そうなるのです。

この鉢植えに生えている、ひょろ長い木がありますが、みなさん何の木だかわかりますか。秋になると黄色い葉が、落ち葉になる、、、、そう、いちょうの木なんです。教会の事務所の裏に、自然に生えてきたので、私はびっくりしました。きっと鳥が種を運んできたのかも知れません。

でも、この木の最初はとても小さな種でした。この先、いちょうは大きくなると数十メートルになります。一粒の小さな種から、あの大木が育つなんて、本当に不思議です。もちろん、わたしたちは日ごろから見慣れているので、いまは驚きませんが、もしこれを初めて知ったとしたら、あの桜や樫の木が、こんな小さな体から始まったという事実を最初に知ったならば、それは大きな驚きになると思います。奇跡です。

同じように、みなさん一人一人が生まれたことは奇跡なんです。どうして、小さな命が、この「鼻」や「目」に育っていくのか、不思議だと思いませんか。医学的にも不思議とされているのです。細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中教授という人が先日、NHKの番組に出演していましたが、はっきり言っていました。こんなことが出来るのは神様だけ。人間には出来ないこととおっしゃっていました。

科学者もそう思っているのです。科学者であれば普通は言わないことですけれど、それを言うというのは、この山中さんには相当な勇気があったと思います。たくさん実験して、たくさん研究して、結論は人間に出来ることではないと考えたわけです。

私たちは何のために生まれたのか。死ぬためか?死ぬために生まれたのだったら、何も待たずに死ねばいいという考えも出てきます。そう考える人は自殺するのだと思いますけれど。もちろん、皆さんは絶対にそういうことはしないで下さいね。だけれども、もうどうにもならない困難にぶつかったときに、自分の心がまいってしまったとき。人は何のために生きて行くのか、ということを考えざるを得ないのです。

私たちは、とにかく、または何となく、「生きたい」と思います。ごく自然に「明日も生きたい」と思う存在です。今日生きたけど、もうこれで終わり、とは考えたくありませんね。とくに若い人はそうですよ。みんなそうでしょ。明日死にたいなんて思う?誰も思いませんよ。

でもこれは人間だけなんですよ。犬に聞いてみたら、どう答えるでしょうか。おそらく明日も生きたいなんていう考えは、犬にはないです。人間だけにある」「考え」なんです。だから、私たちは、人間は、ただこの世で生きるというだけでは不十分なのです。誰でも考えれば分かる事です。

じゃあ、どうするか。そこで、今日のお祝いのことをちょっとだけ考えましょう。今日の福音、聖書の言葉はあまり明るいところではないですね。そのなかで、マグダラのマリアのことを考えましょう。彼女はイエスを愛していた、深く尊敬していました。だけれど、その愛情よりももっと深いものがあった。それは自分がイエスによって、本当に救われたからです。いやされたからです。

だからひどいやりかたで、イエスが十字架の上で殺されたのを見たときには、もう、どうしようもない気持ちになりますよ。墓に行って、イエスに祈るとき。どういう心境だったでしょうか。それは、真っ暗です。最悪です。自分の心が暗闇のなかに沈んでしまった、暗闇の中で、彼女は生きていたんです。墓へ行って見ると、イエス様がいない。どういうことでしょうか。

死んだような気持になったことがあるかも知れません。それは神様のせいじゃない。それは自分だけの思いです。マグダラのマリアは、ベタニアのマリアの後に、イエスに出会い、そして信じました。しかしイエスについては、自分の理想というか、勝手な思い込みが先に立ち、実際はよく知らなかった。イエスの弟子は、イエスが不思議なことをして、信じますが、マリアはそういう評判を聞いていた。そして、イエスに出会い、信じたから、また奇跡が起きた。(「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカによる福音書 08-02))

私たちについて言うと、私たちは、はっきりしたものだけを信じているのではありません。キリストの、神様の力を思い出して、信じる。私たちを創り出し、私たちに命を与えた方だから、私たちから命を取るという方ではないです。いつも、私たちにその命を与え続けて下さる方です。当たり前なのです。でも、当たり前だからこそ、人間はこのとても大切なことを忘れ、身勝手になってしまう。神様を忘れてしまう。人間はそういうものです。

今の世界を見て下さい。今はシリアでも、人同士が殺し合っている。そこで神様を見ることは出来ないです。私たちがごたごたして、いさかい合っているとき、そこで神様を見ることは出来ません。信仰がそこでダメになってしまう。もう、信じるどころではないです。イエスはその人間の身勝手さを知っていて、それを背負って十字架につけられました。そこまで、人間を愛していたからです。そして十字架の上で死に、復活することで、私たちも決して死ぬことはなく復活する、命がずっと続くということを示して下さった。それが神様のお考え、御旨(みむね)だから、そう示された。

私たちも、もうちょっとね、神様からの恵みを見つめなくてはいけません。毎日、忙しい忙しいといって神様を忘れてしまう。何のために働いているのか。もちろん、(お給料をもらう、社会や人の役に立つ等)直接的な意味があることは知っていますし、それらは素晴らしいことですよ。神様がみなさんに、そうしてほしいという思いがあるということも知っています。

だけれども、そのことだけをするのはおかしい。そのなかで、神様から命を与えられたということを、どこまで思い出しているか。もうちょっと、一番根本的なことを、自分の人生の根本を考えたらどうでしょうか。

神様は私たちに、一番大切なことを教えて下さいました。キリストは自分の友のために命を捧げました。その通りになりました。私たちのために、自分のすべてを与えられた。そして、ずっと私たちのそばにいる、ずっと私たちのなかにいると、そう約束なさったのです。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28-22)」

このことは現在も続いています。みなさん、そう感じているでしょうか、そう思っているでしょうか。そう思っていたら、絶望したり、失望したり、明日のことについて心配するということはないはずなんです。

今日ミサを捧げながら、神様の祝別、神様の体そのものをいただいて、私たちは養われました。私たち自身についてもっと真剣に考えながら、私たちには信仰が足りないと、もっと強めて下さいと、イエス様の前で言ってもいいんじゃないかな、と思います。
(原稿は書きおこしたものであり、お説教と部分的に相違する部分がありますのでご了承下さい。)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (1/2)

2014年 復活祭 ロワゼール神父様のお説教 (2/2)