開会式
パナマ大会テーマソング(日本語)
開会式
パナマ大会テーマソング(日本語)
1月20日(日)、日本基督教団松沢教会において、世田谷地区キリスト教一致祈祷会が開催されます。テーマは「正しいことのみを追求しなさい」(申命記16:20)。説教者福田崇先生、司式者山本量太郎司祭により、キリスト教の一致と理解を深めるために行う集会です。皆様どうぞご参加ください。
日時:2019年1月20日(日)午後3時~午後4時30分
場所:日本基督教団松沢教会(156-0057世田谷区上北沢3-8-14)
共催教会・団体
カトリック赤堤教会、カトリック成城教会、カトリック松原教会、日本聖公会 聖愛教会、日本聖公会 東京聖三一教会、日本聖公会 東京聖十字教会、エバンジェリカル・コングリゲーショナル・チャーチ経堂めぐみ教会、日本福音キリスト教会連合 宣教教会、日本バプテスト連盟 経堂バプテスト教会、学校法人 聖公会神学院、日本基督教団 梅ヶ丘教会、日本基督教団 経堂北教会、日本基督教団 経堂緑岡教会、日本基督教団 頌栄教会、日本基督教団 祖師谷教会、日本基督教団 千歳丘教会、日本基督教団 千歳船橋教会、日本基督教団 松沢教会、日本基督教団 松原教会、日本基督教団 用賀教会、学校法人 恵泉女学園
救い主イエス・キリストがお生まれになりました。おめでとうございます。24日の夜、赤堤教会に多くの信徒が集まり、クリスマスイブのごミサにあずかりました。
ガブリ神父様によると、イエス様が夜、お生まれになったのには意味があったそうです。当時の不安な世相、明日の見えないトンネルのなかにいるような暗い気持ちのなか、本当の救い主が生まれた。たいへんなときだからこそ、キリストの誕生はすばらしく思えた…。真夜中にあらわれた、灯火こそ、イエス様なのですね。
私たちの信仰も同じです。たいへんなときにこそ、イエス様、マリア様に祈り、神様の声に耳を傾け、わが身をゆだねる。そこで得られる安らぎと恵みは、ほかの何物をもってしても得ることはできないでしょう。私たちを勇気づけ、生かす、神様の深い愛。それは日々体験できるものなのです。クリスマスに気持ちをあらたにし、また信仰生活を送りましょう。
御降誕のミサの日時は以下の通りです。
12月24日(月)18時
12月25日(火)10時
==Christmas Mass Time==
Christmas Eve 24th Dec,18PM
Lord’s Birth 25th Dec,10AM
12月16日、教会学校の子供たちがクリスマスの聖劇を演じてくれました。みんなとても上手に演じてくれました。その様子を動画でご覧ください。
カトリックの家に生まれたわたし(HP管理人)は、子供のころから自分のことではなく、他人のために祈りなさいと教えられてきました。「誕生日プレゼントは○○がほしい」はだめ。「世界中の人に平和がきますように」はOKだと。
祈るとはそういうものかと、子供なりに納得していたような気がします。
さて、では大人の場合はどうなるでしょうか。「仕事がうまくいきますように」「論文が入賞しますように」「病気が治りますように」ということを、神様にお祈りしては、、、、だめなのでしょうか。
フランシスコ教皇様がこの問題、すなわち「神に向ける懇願の祈り」について、とてもわかりやすい解説をしていますので、ここで引用させていただきます。私と同じ素朴な疑問を持つ方にとっては、とても参考になると思います。
「過去にある人が言ったことがあります。物事を願う懇願の祈りは信仰がまだ弱いことを表す祈りです。真の祈りとは何の願い事もない純粋に神を賛美する礼拝の祈りなのだと。
そうでしょうか。事実はそうではないと思います。懇願の祈り、そこにある信仰は本物です。それは人間が持つごく当然の心情です。全能であり、かつ最高に善良である父である神に対する信仰の表れ、信頼の行為です。
自分は小さく、罪人で、助けを必要とする者であるとの自覚をも表す行為です。ですから、神に向ける懇願の祈りは大変すばらしい祈りなのです。
それはその祈り自体が、神はわたしたちに対して限りない同情とあわれみを持つ父であり、わたしたちがその愛する子として、何の恐れもなしに心から、直接に「わたしたちのお父さんと」呼びかけ、困難にあうときにも、何とかしてください、と願うことのできる父であることを示しているからです」。(水曜恒例教皇一般謁見)
全文はこちらでご覧いただけます(バチカンNEWS)
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2018-12/papa-udienza-generale-20181212.html
先週12月2日(日)からクリスマス(降誕祭)までの期間、キリスト教会ではアドベント(待降節)と呼んでいます。一般の方にはむずかしく聞こえるかもしれませんが、降誕祭は、イエス・キリストが人間の世に降りてこられたことを記念するということ。
この一方、待降節には2つの意味があるとされます。一つは救い主キリストの誕生(降誕)を待つという意味。もう一つは人の世が終末を迎えたときのキリストの再臨を待つという意味です。ジングルベルの流れる季節、私たちキリスト者は、クリスマスを祝うだけではなく、2000年前の再臨の約束を信じて待っているのです。
「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカによる福音書3章5- 6)」
本日の御ミサのなかでは、「ゆるしの秘跡」が行われ、主の大いなる恵み、ゆるしをいただきました。神の御子にゆるされたので、信徒の胸は軽くなり、みな笑顔で帰路につきました。まだ、道はでこぼこですが、この世に救いがあるのは具体的な事実です。
うまやのイエス(写真:2017年待降節 カトリック赤堤教会)