善きサマリア人の例え

本日の新約聖書の朗読は、善きサマリア人の例えとして知られる箇所(ルカ10・25~37)でした。弱き者を見捨てず、助けの手を差し伸べること、これが神である主を愛することと同じく大切なこととされています。

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばにくると、その人を見て憐(あわ)れに思い近寄って傷に油とふどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10章30-36節)。 「隣人とはだれですか」との問いに対し、イエスは「だれが隣人になったと思うか」との問いを返された。 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10章36-37節)。

聖書の引用については下のリンクからお読みください。

29. 神の愛と隣人愛・サマリア人のたとえ

あまりにも有名なこの善きサマリア人のたとえですが、これに呼応する旧約聖書の箇所が、とても興味深いので、ご紹介します。

「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記 19章1-2.17-18章)

このなかで、神様が言われています。兄弟を憎むな、戒めるなら率直にしろ。復讐をするな、恨みを抱くな。自分自身を愛するように、隣人を愛せよ、と。

日常生活における悲しいこと、不安なこと、悔しいことに直面したとき、その難局を乗り切るための、本質的なこたえが、ここにあるような気がします。私のちっぽけな存在、プライド、心配…などは問題ではないのです。神様が上のようにお命じになっているのです。この御言葉に従えば、あとは何を思い悩むことがあるでしょうか。信仰が私たちの命の糧なのだと実感します。

ボランティアの活動報告

教会委員会のボランティア担当の委員から、活動報告がありました。ボランティアを体験するために行った、山谷地区のスタディツアーでは、仕事、家族や住まいを「喪失した」よりも、他の人のために仕えることに目的を見出し、「満たされている」人々がたくさんいて驚いた、との感想が報告されました。

このほか、赤堤教会の信徒が参加している東京、神奈川のボランティア活動が報告され、各々関係者の方が新しいメンバーの参加を呼びかけました。

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ケニアからトー神父様が一時来日

ケベック外国宣教会のトー神父様が一時的に来日。不在中のガブリ神父様に代わり、ミサを司式してくださいました。また、ケニアで宣教中のインド・ケララ州出身の神父様2名も共同司式してくださいました。

赤堤教会で日本語を勉強してから東北に赴任したトー神父様でしたが、約4年前に日本を離れ、現在はケニア管区で活躍されています。トー神父様は日本語も完璧におぼえていらっしゃいました。ひとなつっこい、あの笑顔を久しぶりに拝見することができて、信徒一同、胸がいっぱいになりました。3名の神父様方、本日はありがとうございました!

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三位一体の祝日 ロワゼール神父様のお説教

みなさん、赤堤教会に長いこと通っていると思いますが、聖堂の左側にある、木製のレリーフに気が付いていますか。その意味をご存知ですか。このレリーフは3つの部分からなり、一番上には、雲の中から伸びる手の姿があります。これは神様のしるしであり、創造主である、父なる神のしるしです。二番目には、聖霊が鳩の形をしています。いちばん下に、十字架があります。これは三位一体をあらわしています。このレリーフは、ミサの度に、私たちが信じている神について思い起こさせてくれます。

三位一体とはどういうことでしょうか。それは、私たちの生きている世界の中には、ないようなことです。今日の祈りのなかに、神さまは唯一である、と同時に三位であると言われています。

じつは愛というのは、相手がなければ愛することができません。愛はいつも誰かを愛しているものです。愛が自分の心の中だけのものなら、それはエゴであって、愛ではありません。愛と恋は違います。恋はどうしても自分中心の感情ですが、愛は相手がいなければ生じない、感情または精神です。

神さまがただ自分だけのことを考えるような方なら、神さまの中に愛はなかったでしょうね。でも実際には、愛は、神さまの存在そのものといってもいい。私たちが造られたとき、私たちは神さまに似せた姿なので、その神さまの愛は私たちにも注がれました。「神を愛し、隣人を愛する」という、私たちのもっとも大切な決まり。私たちの信仰の根本的な精神がここでつくられたのです。私たちは、神に似せて造られたのですから、愛を人に与えることは当然の行いなのです。

皆さんは、この社会のなかで一人暮らしの人が多く、孤独な人が多いことを知っていますね。でも、私たちもときどきは一人でいたくなります。静かに自分の心をのぞくことが必要なのです。大自然の中に入り、静けさと向かいあうとき、自分の心が養われていくことは事実です。考えてみれば、そのとき相手は静けさ、花、自然なのですが、これらの被造物とのコミュニケーションによって、自分が豊かになるということなのです。そして自分の日常の場所に戻り、また人と接するとき、その豊かさをもって、関わり合いがもっとうまくいく。皆さん、そういう経験はありませんか。

ひとりぼっちという言葉があります。一人ぼっちな人は、人とのコミュニケーションがなかなかうまく出来ず、その結果、自分の存在が人から認められないと感じてしまう、そんな状態のことです。
わたしたしが社会の中に出て行って出来る事は、いろいろあると思いますが、どんなときも、自分の心の中に三位一体、神の愛が存在していることを自覚することは大切なことです。自分の中に愛を持ち、その愛がもっと大きく育つように祈りたいと思います。

ほんとうに、皆さんの共同体のなかで、一人もひとりぼっちにならないように。そして、社会の中で、一人もひとりぼっちにならないように、皆様の働きが求められています。そのために、私たちの心にある三位一体の存在を実感することが必要なのではないでしょうか。

復活したキリストが、いつでもどこでも一緒にいてくださる

わたしたちはいつも思います。救い主は常にわたしたちとともにいてくださると。
ある信者は主の啓示を明らかに感じ、ほかの信者は暗がりのなかの希望のように心に感じ、また、別の信者は哲学的・人生論的な帰結として、神がわたしたちとともにいることを受け入れています。

実際、このことは何度も聖書でくりかえされるのですが、今日(復活節第6主日)読んだ聖書の箇所には端的に書かれていますので、聖書の典礼の一部を抜粋いたします。

わたしは、都の中に神殿を見なかった。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。(黙示録21・10-14、22-23)

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14・23-29)

わたしたちの住む世界には神の愛が働き、神の栄光に満ちています。神を賛美し、神を信頼する日々。やはり、わたしたちの人生は神様とともにあります。

ご復活おめでとうございます

今年もご復活祭を迎えました。おめでとうございます。
しかし、「復活」といっても、いまこの世界のどこかでイエスが生き返ったわけではありません。わたしたちキリスト者は、信仰の中心的な出来事である「復活」を記念するために毎年復活祭を祝うのです。では、教会ではなく、わたしたち個人的には「復活」とは何でしょうか。この答えは人によってさまざまでしょうが、東京のある教会の神父様が次のように書かれています。

「イエスさまの復活にあずかるなら、わたしたちもイエスさまと一緒の向きで、一緒の眼差しの中に入って、生きることになります。つまり、悪人にも善人にも、正しい人にも正しくない人にも「神さまが共におられる」という真実を見て生きる者になるということです。」

「イエスさま、つまり「人間の中に神さまが共におられることを認める眼差し」は、死によっても決して滅びませんでした。このお方が、今日、わたしたちと一緒にいてくださいます。」
(カトリック麻布教会HP 主任司祭 パウロ三木 稲川圭三 神父)

ご復活祭は、わたしたち一人ひとりにとって、さまざまな意味を持っています。この日を世界中の人々と共有できることを神に感謝したいと思います。

あまりにうれしいので、今回は珍しくゴスペル版の詩編25を紹介します。皆様、素敵なご復活祭お過ごしください!アーメン、ハレルヤ!