12月6日(日)黙想会 関谷神父様 「恵み~神様が一方的にあたえてくださる」

12月6日(日)、関谷義樹神父様が、黙想会の指導に来ていただきました。関谷神父様はサレジオ会の司祭であると同時に、ドンボスコ社の代表として、編集や書籍刊行などに携わる若い神父様です。お話しでは、恵みとは神様が一方的にあたえてくださるもの。恵みの「有無で」はなく、恵みを「感じる心」が不足していることが問題。文明が進んだ現代では、機械に囲まれて生活している。知らず知らずのうちに、機械と同じ正確さ、迅速さを、人間に求めてしまう。それが不平と不満につながるとき、「神様の恵みを感じ取る力」が、退化してしまう。現代の大きな問題であると指摘されました。

また、教皇フランシスコが昨年の降誕祭直前に発表した「2014年12月22日、ローマ教皇庁への降誕祭のあいさつ」を紹介し、キリスト者がおちいりやすい「やまい」について、わかりやすく解説いただきました。以下はカトリック中央協議会のHPからの抜粋です。

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(関谷 義樹 神父)


 

ローマ教皇庁とキリストのからだ

「人となられ、この世の惨状を変えたあなたは、ケルビムより高い所におられます。」
 (聖アタナシオス)

1. 自分は「不滅な者」、「免疫のある者」、「必要不可欠な者」であると考え、定期検診を受ける必要性を無視する病気。周りに歩調を合わせず、適応しようとしない自画自賛的な教皇庁は病んでいます。

2.  働きすぎ病もあります。この病気にかかった人は、仕事に没頭するあまり、イエスの足下にかがんで「良い方」を選ぶことを忘れています。

3.  心と精神が「石のようになる」病気もあります。それは石のように「かたくな」(使徒言行録7・51)な心を持つ人々の病気です。そうした人々は、いつしか穏やかな心、いつも目覚めている心、勇気ある心を失い、書類にまぎれ、神から遠く離れた(ヘブライ3・12参照)仕事人間になってしまいます。泣いている人とともに泣き、喜んでいる人とともに喜べる人間性を失うのは危険です。

4.  計画し過ぎる病気、機能主義という病気。キリストの弟子がすべてを隅々まで計画し、完全に計画すれば物事はうまくいくと考えるとしたら、その人は帳簿係か事務員です。ものごとをしっかり準備する必要はありますが、その際には、聖霊の自由を抑え、方向づけようとする誘惑に陥ることがないようにしなければなりません。

5.  協調性の欠如という病気。組織のメンバーどうしの交わりが失われる時、その組織は協調的に機能できなくなり、バランスを失います。

6. 「霊的なアルツハイマー病」もあります。それは、わたしたちが自分自身の「救いの歴史」、主とともにこれまで歩んできた歴史、そしてわたしたちの「初めのころの愛」(ヨハネの黙示録2・4)の記憶を失う病気です。この病により、霊的な力がますます弱まり、その人の人生は長期的、短期的に大きなダメージを受けます。

7. 競争と虚栄心という病気[11]。外観、衣服の色、肩書きが人生の主な目的となってしまうとき、わたしたちは聖パウロの次のことばを忘れています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2・3―4)。この病気はわたしたちを「欺く」人に変え、偽りの「神秘主義」、偽りの「静寂主義」に導きます。

8.  実存的統合失調症という病気。この病気にかかるのは、一般の人々によく見られる偽善と、どんな教義も学術書も満たすことのできない霊的な空白の拡大という二つの問題を抱えて二重生活を送っている人です。司牧から遠ざかり、官僚的な事柄に自分を縛りつけているために、実社会や人々との具体的なかかわりがない人が、しばしばこの病気にかかります。このように彼らは、自分が他者に厳しく教えていたことをすべて棚上げして、隠遁生活、ときには自堕落な生活を送り始め、自らのパラレルワールドに入り込みます。この非常に深刻な病気には、回心が至急、求められます。回心こそが不可欠です(ルカ15・11―32)。

9.  うわさ話、苦情、陰口という病気。この病気については何度も話してきましたが、まだ十分ではありません。この深刻な病は、短い会話、おそらく世間話などから始まり、人に取り付き、その人を(悪魔のような)「毒麦をまく人」にします。そして多くの場合、同僚や仲間の名誉を傷つける、血も涙もない者にしてしまいます。

10.  上司を偶像崇拝する病気。これは、上司に気に入られるために、取り入る人の病です。彼らは出世第一主義、日和見主義の犠牲者です。神ではなく人間をあがめています(マタイ23・8―12参照)。自分が得られるもののことだけを考え、自分が与えるべきもののことは考えません。

11.  他の人々に対して無関心であるという病気。それは、一人ひとりが自分のことだけ考え、人間関係における誠実さと温かみを失ってしまう病気です。

12.  陰うつな顔という病気。それは、他の人々、とりわけ自分よりも下にいる人々に、厳しく無愛想で傲慢な態度で接しなければならないと思っている、憂うつで厳格な顔をした人の病です。実際、厳格さと、何も生み出さない悲観主義は、恐れと不安のしるしです[12]。キリストの弟子は勇敢で、穏やかで、情熱的で喜びにあふれた人、どこに行っても喜びを伝えられる人となるよう努めなければなりません。神によって満たされた心は、喜びを周囲にも分けることができる喜びにあふれた心です。

13.  物をため込む病気。これは、キリストの弟子が、必要にかられてではなく、安心感を得るために物をためることによって、自分の心の中の実存的な空白を埋めようとする病気です。実際、物的な財産を持っていくことはできません。なぜなら、「曲がりくねった紙片は、ポケットに入らない」からです。わたしたちの地上の財産は、たとえそれが贈り物であっても、決してその空白を埋めることはできません。むしろ、みぞを広げ、より深刻なものにしてしまいます。

14. 閉鎖的な集団意識という病気。一つの集団の仲間になることが、キリストのからだ、ときにはキリストご自身に属することに勝ってしまう病気です。この病も最初は善意から始まりますが、時につれて、それは各メンバーを隷属させ、キリストのからだの調和を脅かし、とりわけ弱い立場の兄弟姉妹に不幸、災いをもたらすがんになってしまいます。

15. 最後に、自己顕示をいう形で行われる世俗的な利益を求める病気です。キリストの弟子が、その奉仕を力に変え、その力を世俗的な利益や権力を得るために商品化する場合です。それは、力を蓄えることをつねに求め、そのためなら新聞や雑誌などで、他の人を中傷したり、おとしめたり、信用を傷つけたりしてもかまわないと思う人々の病です。

 


関谷神父様のお話は本当にわかりやすく、キリスト者として考えさせられることが多くありました。また、若く、聡明な神父様のお姿そのものにも、わたしたち信徒はたいへん勇気づけられました。お忙しいなかご指導くださりありがとうございました。

最後に…、

ドンボスコ社の刊行物のお知らせ

「カトリック生活」(2016年1月号)

【いつくしみの特別聖年記念号】あなたがたの父が憐み深いように
・途方もない神のミゼリコルディア ●平林冬樹
・いつくしみの特別聖年に思う
たとえどんなときでも、私たちは神のいつくしみに満たされている ●三浦暁子
・カトリック浜松教会主任司祭山野内公司師に聞く
「いつくしみの扉」をくぐり、新しいスタートを迎えよう
・特別聖年を迎えて
「Misericordiae いつくしみ」は「家庭」から
―シノドスの成果を生かそう― ●南條俊二

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